巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

鉄仮面121

鉄仮面    

ボアゴベ 著  黒岩涙香 訳  トシ 口語訳      

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                 第百十一回

   
 バンダがブリカンベールを連れて再びパリに入るのは、実に危険なことと言わなければならない。自分自身と言いブリカンベールと言い、共に国家の牢獄を破って逃げた大罪人で、探索の厳重なパリに入ったら、何時捕まえられるか分かったものではない。

 だがバンダはこれを恐れず、生きてこの世に長生きするよりも、セント・マールスの用心が余りに厳重で、どうしても鉄仮面を救い出す見込みはないので、バイシンが言うように諸国が兵を上げるまで待つのも何時の事やら分からないので、今はこの世の頼りなさに耐えきれず、いっその事、一か八か自分の命を的にして、できるだけ動いてみて、倒れるまでも自分の思うようにやってみようと十分に考えて、パルマー国に居るバイシンにもその事を詳しく書いてやり、その上でパリにほとんど死にに来たのだった。その心は憐れむべき他はない。

 頃は1691年7月1日の炎天も、早や日暮れに向い、斜めにさす西日も高い林にさえぎられて、力なく王宮ヴァーセーユの木陰に夕風が吹こうとしている頃だったが、宮廷から出て来て、ゆっくりと走り去ろうとしている一台の小馬車があった。中に乗っているその主人は、昼間からの公務に疲れはてたと言う様に、自分から馬の手綱を取りながら、コックリコツクリと居眠りをしていたが、馬は慣れた道の事なので、林に沿う小道を迷う事なく王宮の前の坂道を無事に下り、右に折れて裏手の方に向い、およそ100メートルくらい行って、またも一方の林に入って行った。

 この主人公は誰あろう、当年53才になるあの大宰相ルーボアであった。馬車はやがて木立の最も暗く重なりあっている辺りに来ると、馬は何者かに驚かされたようにたちまち立ち止まったので、居眠りをしていたルーボアは、今も鋭いその目を開いてみると、品格の卑しくない一人の女が、しっかりと馬の口を取っているのを見た。昔なら彼は大喝(だいかつ)一声に叱りこらすところだが、五十余年の宮廷奉公は、幾らか彼の角々をすり減らしたと見え、彼はあえて驚かず、「おお、婦人、何をする。」と言いながら、ポケットに手を入れ財布を出そうとするのは、彼、この女を戦死した兵士の妻で、恩給の渡し漏(も)れを催促する者と思ったようだ。

 今までにもこの森で、その様なことが何度かあったので、自分の陸軍への人望をつなごうとする気持ちもあり、彼は軍人の妻に対してはことさら恵み深いと聞いている。女はその考えを悟ったのか、押しとどめるように片手を延ばし、「いえ、いえ、貴方の財布に目を付ける者では有りません。」と軽く言う。ルーボアは少し首だけを後ろにそらし、その目を三角にして、「はてな、何を言うのだ。」と再び女の顔を不思議に思って見直すと、まんざら見覚えの無い顔ではなかったのか、三角の目はたちまちまん丸になった。

 女は永くは怪しませず、非常に落ち着いた調子で「貴方はバンダを忘れましたか?いや、あの頃のヘイエー夫人を」この一言に丸い目は四角になった。彼はどうしてヘイエー夫人を忘れるだろうか。ヘイエー夫人は彼が初めての愛にして、又終わりの愛だった。彼の堅苦しい生涯において、愛という言葉を語ったのはただヘイエー夫人に向かってだけだった。彼のあの時の失望は何年の後までも、ほとんど彼の健康を左右するかと思われた。彼は一度の愛にこりて今に到っても妻を迎えず、後々までも独身政治家の手本となったほどだから、死ぬまでバンダの名前は忘れないだろう。(彼は甥のバーベジウに後を継がせたと言う)

 その愛の情は既に彼の心を去ったとはいえ、名前はまだ記憶に残っていることだろう。彼、この言葉を聞くと何を思ったのか馬車を飛び降り、無言でバンダの手をしっかりと取った。怒って逮捕するためか、それとも余りの驚きに我知らずこの様なことをしたのか、バンダも気味悪くなり少し顔色を変えたが、死を決して来た事なのでひるむそぶりも見せず、声の調子をよく整えて「貴方にお目に掛かりたいため、今日で丁度一週間この森にただよっておりました。」彼は初めて気が付いたようにバンダの手を払いのけ、「何だ、俺に」と聞き返す。

 この様子とこの言葉つきから考えると、もはや愛の情は少しもなく、むしろバンダをいやしむかと思える。この時、彼はもし横を向いて木陰を見たら、その最も深いところに、あたかも大蛇の目のように、非常に恐ろしい二つの目が、その身を狙って光っているのを知ったろうが、彼は少しも気が付かず、バンダの顔を見つめたままで、「それは何の用事で」、「はい、お願いがありまして。」

 「願いとはどの様なことだ。」「命がけのお願いです。私をセント・マーガレットの砦に送り、セント・マールスの預かっている囚人の顔をただ一目」言葉の終わらない中に、彼は夢が覚めた人のように、あっと驚き「その様なことをどうして知っている。」

 「それを知らないでどうしましょう。十余年の苦労も、ただその囚人の行方を、見失なうまいとするためばかりのもの。はい、私は誰にも知らさず、彼の行く所を付いて歩いているのです。
 彼がバスチューユからピネロルへ移された事も、ピネロルからエキジールへ、エキジールからマーガレットへ送られたのも、残らず知っております。」

 「こんなにしてまでの苦労を、可愛そうだとは思いませんか。他の者とは違い、今となっては死ぬ以外に望みの無い私に、鉄仮面に包まれた彼の顔を、ただ一目見せて下さるのが何で国家の害になりますか。何で職務にそむきますか。」と今にも泣きだしそうに声をしぼるのを、ルーボアは一言一言驚くにしたがって振り捨て去ろうと身構え、

 「逮捕されないのを幸いと思って早く立ち去れ。逮捕を許してやるだけでも昔の愛にむくいるためだ。」こう言ってヒラリと馬車の方に振り向くと「どっこい、そうはさせないぞ」といつの間にか立ち現れて道をふさいだのは雲を突く大男、これは中間《召使い》のブリカンベールとは読者のすでに知っているところだ。

   
 
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