巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou10

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.10


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    噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

 

       十  愚と言おうか、不幸と言おうか

 何と言う間違った奴だろう。十九年の苦労が済んで、今日唯(た)った五日目だのに、早や捕らえられる様な事を仕出来(しでか)した。再び監獄へ引き戻されるに決まって居る。今度行けば又何の様な事に成って、何時出られるか分からないのだ。愚と言おうか不幸と言おうか、全く言い様が無い。

 憲兵の中の長(おさ)らしい一人が、僧正の前に進み、先ず
 「閣下よ」
と恭(うやうや)しく呼び掛けた。閣下とは尋常の人を呼ぶ言葉では無い。尊敬の極度とも言うべきだ。捕らえられて居る戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)は此の語を聞いて驚いた。殆ど呆れた様に顔を上げて呟いた。

 「閣下とは。閣下とは。それでは唯の牧師さんでは無いんだ。」
 憲兵は叱ッた。
 「黙れ、僧正閣下に向かッて」
 アア此の人が僧正とは、今が今まで牧師よりもっと下の人と思って居た戎瓦戎に取っては、意外とも何とも譬(たと)え様が無い。彼は殆ど消え入る様に威縮した。

 僧正は直ちに立ち上がって戎瓦戎の傍に行き、
 「イヤ、お前さんか。好い所へ帰って来なさったよ。」
と却(かえ)って嬉しそうに声を掛け、更に、
 「私は燭台をも一緒にお前さんへ遣ったのに。あれも皿と同じく純銀だから二百法(フラン)には成るのだよ。何だって燭台を残して皿ばかり持って行かれた。」

 慈悲が溢れるとは此の僧正の此の言葉である。戎は目を張り開いて僧正の顔を見上げた。その目付き、その様子は、到底人間の言葉に写す事は出来ない。
 憲兵は少し張り合いの抜けた様子で、

 「イヤ、それではーーーー閣下よ。此の者の申し立てが、事実でしょうか。拙官等は途中で此の者に逢ったのです。此の者の走って行く様子が、何うも怪しく、何だか盗みをして逃げ去る者の様に見えましたから、捕らえたのです。そうしたら銀の皿を持って居ましたのでーーーー。」 
 僧正「分かりました。」
とて笑みを浮かべながら、

 「私から貰ッた言ったでしょう。その通りです。昨夜一夜の宿を貸して、その品を与えたのです。その言い立てが怪しいから、ここへ確かめに連れて来られたのでしょうが、お確かめには及びません。」
 憲兵は顔の長(たけ)を引き延して、
 「ハア、左様でしたか。そう言う事なら、捕縛すべきでは有りません。直ぐに放ッて遣らなければ。」

 僧正「勿論放たなければいけますまい。」
 憲兵は押さえ附けて居た戎の首筋を放した。戎は逡巡(しりごみ)した。
 そうして言った。
 「アア、私を、私を、許して下さるのですか。全くですか。」
 全く夢を見て居る様な言葉付きだ。
 憲兵「そうさ。罪を犯したので無いから。勝手に立ち去って好いのだよ。」

 僧正は又戎に向かい、
 「アア、立ち去るなら昨夜遣った燭台をも持って行くが好い。」
と云って差し出して渡した。
 瓦戎は頭から足の先まで震いつつ受け取った。殆ど何を受け取るのか自分で知ら無い程だろう。僧正は言い足した。

 「サア、機嫌好くお行きなさい。オオ我が友よ。今度帰って来る時は、何も塀を越えるには及ばないよ。毎(いつ)でも入口の戸を推せば、錠は卸して無いのだから。総て入口から出入りなさい。」
 全く親友を遇するのだ。そうして又憲兵に向かい、

 「何うも御苦労様でした。」
 憲兵はその意を了承して立ち去った。
 戎瓦は燭台を持ったまま、その首を垂れたまま、身動きをも出来ない。戎は気絶し相である。既に気絶して居るのでは有るまいか。僧正は床より降りて彼の前に立ッて、

 「お前さん決して忘れてはいけないよ。此の燭台や銀の皿を資本(元手)にして、屹度善人に立ち返ると私に約束した事を。」
 戎はその様な約束した覚えが無い。自分で忘れたのか知らんと唯当惑の様子である。僧正は更に言葉に力を込めて、

 「コレ戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)、コレ兄弟、お前さんはもう悪に従っては成らないよ。善の人だよ。私がこうしてお前さんの魂を買い取るのだから。ねえ兄弟、今から心を入れ替えて、暗い考えや地獄に居る様な思案を起こして居てはいけない。明るい正直な人に成ッて、良く神様に縋(すが)らなければ。好いかえ、分かったかえ。」

 是が分からずに居られる者か。
 人事不省(ふせい)とは此の時の戎・瓦戎の状態だろう。彼は一言をも発しなかったが、突然逃げ出した。
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 彼は狂う獣の様である。何処が道、何処が町とも知らない。唯早く人家の無い所へ行き度い、早く早くと気の急くっままに、曲がり角へ来ればキッと曲がる、後戻りをするのも知らない。けれど終に野原に出た。そうして彷徨(さまよ)って又彷徨った。朝から一粒食をも喫(たべ)無いけれど、自分の空腹をも知らない。午前から午後に至った。

 心の中には様々の感じが湧いた。或時は花の咲いた秋草の匂いに、幼い頃野に遊んだ罪の無い様子をも思い出した。二十年目に初めてその様な思いが出たのだ。心の底にそれが微かにも残って居たのが不思議であった。或時は牢の中が却(かえ)って無事だとも思い、何故今朝引き戻されなかったのだろうとも怪しんだ。けれど総て切れ切れである。

 乱れ乱れた心の中に、取り留まった考えの纏(まと)まろう筈が無い。或時は自分の身が、自分の身か人の身かそれも知らなかった。疲れたのか、疲れないのか、竟(つい)に路傍(道端)の草叢(くさむら)の陰に腰を卸した。考えるでも考えないでも無い。身動きもせずに徒(た)だ眼を空に据えて、幾時をか経た。

 歌を歌って来るのが聞こえた。多分は近村の子ででもあろう。使いにでも行った帰りか。手に散(ばら)銭を持ち、嬉しそうにそれを投げ上げ、落ちて来るのを待ち受けて、手玉の様に弄んで戎・瓦戎の前まで来た。戎瓦の顔は、先ほどから夕立ちの空とでも言う様に曇り、陰気に淀んで居たが、彼の子供はここまで来て、その手玉を取り落とした。

 歌って居た歌は止(や)んだ。落ちたのは二法(フラン)の銀貨で、転がって瓦戎の足許に来た。瓦戎は直ぐに足を挙げて踏み付け、知らぬ顔でその銀貨を足の下へ隠した。エエ彼は又此の様な事をする。



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