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噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百 陥穽(おとしあな) 八
白翁が腕に熱鉄を当てて居る間は、流石の悪党等も戦慄して居た。如何に彼等と雖も、人間に自分の腕を焼き捨てるほどの豪胆な振舞いが有ろうとは思わなかった。誰でも此の所業を見て、恐れ戦かずに居られる者では無い。全く部屋の内が、肉の焼ける臭気で満ち、肉の焼ける煙で閉ざされた様に成った。
けれど白翁がその熱鉄を投げ捨てた以上は、白翁の手に武器は無い。白翁は素手である。素手で処分を待って居る。
「何の様にでも私を処分なさい。」
と言うのが翁の精神なんだ。もう全く殺される覚悟で居る。
悪党等も殺す外は無いと見た。手鳴田が先ず号令した。
「取り押さえろ。取り押さえろ。相手は素手では無いか。何を手前等は恐れるのだ。」
然り、相手は素手である。もう何も恐れる所は無い。けれど恐れない訳には行かない。何故だろう。ナニを彼等は恐れるだろう。嗚(ああ)、白翁の胆力を恐れるのだ。其の豪胆が彼等の気を呑んだのだ。
人間の心と言う者は、こうした者だ。真に誠心が中に満ちれば、鬼神をも感動せしめる。猛獣をも威服する。全く敵するに敵せられない威力が備わるのだ。手鳴田は再び叫んだ。
「此の爺(親爺)を逃がしたら何うする。殺す外は無いでは無いか。」
此の語に励まされて悪党は皆立った。白翁を取り囲んだ。手鳴田は又励ました。
「何だえ、猶(未)だ片足をテーブルへ縛って有るでは無いか。暴れる事などは出来はしない。」
悪党の中の最も命知らずな奴が両人、双方から白翁の肩を取押さえた。白翁は抵抗しない。捕らわれたままで腰を下ろした。
「それ見ろ。もう断念して居るでは無いか。殺すのは俺が殺して遣る。」
と手鳴田は言い、妻の顔を見返った。
妻は亭主よりも惨酷である。通例女の方が此の様な場合には男よりも惨酷だ。取分け先刻から白翁に対し骨髄に徹する程の恨みを抱いて居るのだから、
「そうです。早くお殺し成さい。殺さなければ始末に卒(終)えない。」
と言いつつテーブルの抽斗(ひきだし)から、刀を取り出して手鳴田に渡した。
ここに至って若し守安が、警官に合図をしなければ、守安は人間で無い。幾等我が父の神聖な遺言にもせよ、又如何に手鳴田が父の命の親にもせよ、又合図の為に必然手鳴田が警官に捕らわれて死刑に処せられるに決まって居るにしろ、現在目の前に、善人が悪人に殺されるのを見て、其れを見過ごすと言う事が何で人の情だろう。何で耐(こら)えて居る事が出来るだろう。
けれど守安は未だ躊躇した。躊躇と言うよりもむしろ絶望した。何とか工夫は無いだろうかと、此の際に及んでさえ、未だ部屋中を見廻した。
真に天意が人道に干渉するとは此の様な時だろう。此の時、此の部屋の机の上へ、明るく月影が差した。昼間から雪を降らして居た空の雲が切れたのだ。其の切れ目から洩れる月が、窓を透(通)して机の上に落ちたのだ。守安の目に着いたのは、昼間に手鳴田の娘が来て落書きをした、其の紙である。
紙の表に、
「捕吏が来た。逃げろ。逃げろ。」
と書いて有るのは、彼の娘の境遇として、当然の語ではあるけれど、実に天意の予(あらか)じめ,彼の娘を駆り、今夜の此の時、此の所に用いさせる為め、この様な文句を認(したた)めさせたのかとも疑われる。実に不思議と言う可きである。
直ぐに守安は其の紙の文句を破り取り、壁の泥の塊を取って之に包み、隣の部屋へ投げ込んだ。この時手鳴田は、早や妻から人切り包丁を受け取り、最後の恐れに打ち勝って、将(まさ)に白翁の頭を切り割らうとする数秒の時であった。白翁は殺されるに決して、首を垂れたまま、見上げもしない。或いは焼けた腕の痛みに、自ずから顰(しか)む顔を見せまいとして、俯(うつむ)いて居るのかも知れない。何うせ死ぬなら男らしく殺されようと言うのが総て勇士の覚悟である。
投げ込んだ紙は部屋の真ん中に落ちて、
「オヤ何か落ちたよ。」
と言ったのは妻である。
「何所から落ちたのだろう。」
と一人の悪党が怪しめば、
「窓の外から誰かが投げ込んだのに決まって居るワ。その外に来る所は無いのだもの。」
と又一人が推理した。
その中に妻は拾い上げた。
「何れ見せろ。見せろ。」
と手鳴田は、振り上げて居た刀を下ろして受け取って、開き読んだ。
「大変、大変。絵穂子(イポニーヌ)が書いたのだ。絵穂子の合図だ。捕吏が来た。逃げろ逃げろと書いて有る。」
捕吏と言う一語ほど悪人の耳に恐ろしく聞こえる者は無い。宛(まる)で一同の身に電気が掛かった様な者で、上を下へと混雑が始まった。特に合図の文句が非常に窮迫を知らせる様に書いて有るのだから無理も無い。
甲「何方(どっち)へ逃げよう。」
乙「窓から此の合図が来たから、窓の方へは未だ捕吏が廻らないのだ。」
手鳴田「そうだ。窓の下には絵穂子(イポニーヌ)が立って居る。此の様な時の用意に。縄梯子まで調(あつら)いて置いた俺の先見は、豪(いら)い者だろう。
何れほど際どい場合でも、自慢する種さえ有れば、自慢せずには居られないと見える。
「ソレ、縄梯子、縄梯子。」
と言って一人が差し出すを、直ぐに手鳴田は窓に掛けて外に垂らし、
「サア妻、来い。」
と妻と共に、窓から抜け出でようとした。
「そうは行かない。」
と三人の悪人が直ぐに手鳴田の足を引いて引き戻したのは、丁度先刻白翁が逃げようとするのを引き戻したのと同じ有様である。
悪人「そうは行かないよ。難船すれば船長は後で逃げるのだ。サア吾々から先に。」
手鳴田「俺は船長では無い。大将だ。戦争では大将が先ず退くに決まって居る。」
悪人「旨く言うぜ。それなら籤にしよう。籤(くじ)に。」
「籤が好い。籤が好い。」
と四、五人の口が揃った。
手鳴田は取られた体を振り放そうともがきつつ、
「馬鹿を言え、此の場合などに籤などを拵(こしら)えて居られるかい。籤ならば紙切れに番号を書き、それを銘々が探らなければ成らないじゃ無いか。」
慌てて怒鳴る声の未だ終わらない中に、外から此の部屋の戸を開き、
「籤ならば僕の帽子を貸してやろう。」
と言いつつ入って来て、一同の前に立った人が有る。
是れは誰れ、外でも無い、此の者どもが兼ねてその顔、その姿を見知って居て、怖(お)ぢ畏(おそ)れて居る捕吏の頭、巡査監督の蛇兵太である。
オヤ又オヤ。
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