巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百三 十七八の娘

 其れは扨(さ)て置き、彼の守安は手鳴田等の引き立てられて行った後に、暫(しば)らくの間は何の思案も出ないほどに心が騒ぎ、自分の部屋で自分の身が落ち着かない様に感じたから、其のまま外に出、以前から親密にして居る彼の「ABCの友」の会員、近平某と言う者の宿に行き、一夜を明かした。

 若し元の宿に居ては、此の後、警察署や裁判所へ証人として呼び出され、自然に父の遺言に背いて、手鳴田の不利益となる様な事も、言い立てなければ成らないから、彼等の裁判の落着するまで、成るべく警察などへ、自分の居所を知らさないのが好かろうと思い、翌朝直ぐに少しの金を工面し、元の宿に行って払いを済ませ、僅かばかりの荷物を引き取って来て、近平某と同宿する事にした。

 この様に体が落ち着くと、昨夜の事が益々心に浮かんで来る。自分は確かに手鳴田を助けなければ成らない義務が有るのに。此のまま知らない顔で居て済むだろうか。イヤ決して済まない。若し父の霊が彼の世から、自分の此の様を見れば、親の遺言を良く守らない、不埒(ふらち)な奴と此の身を攻めるに違い無い。

 併し今と為っては仕方が無いから。攻めては牢の中の手鳴田へ、月々小使いでも差し入れて遣ろうと、こう思って此の後は、苦しい中から毎月五円づつを、欠かさずに差し入れた。但し厳重に自分の名を隠したから、きっと手鳴田は牢の中で、何処の阿呆が此の様な事をするかと怪しんだだろう。

 けれど是よりももっと気に掛かるのは、白翁と黒姫の事である。悪人共に取り囲まれた時の白翁の勇気と挙動とは、実に感心の外は無いが、唯だ其の最後に警官の姿を見て、窓から逃げ去ったのは何の為だろう。余ほど警察を恐れなければ成らない様な身の上かも知れない。そうとすれば黒姫の身の上も、或いは安心の出来ない様な場合が多いのでは無いだろうか。
 何にしても黒姫の居る所を探し出さなければ成らない。

 今までと雖も、守安が黒姫の為に思い煩(わずら)ったのは、並大抵では無かったが、是からは又一段とその煩いを加えた。彼は全く痩せ衰え、同宿の近平からも怪しまれる程に成った。けれど何の目当ても無い尋ね者だから、事に依れば、生涯を空しく黒姫の跡を尋ねるのに、費やさなければ成らないかも知れ無い。

 彼は全く其れを嫌だとは思って居ない。心の底では其れほどの覚悟で居る。
 彼は毎日家を出て、町中に尋ねて歩く。曾て黒姫に逢った公園にも行く。黒姫の元の住居の辺をも徘徊する。凡そ若い恋人が恋人を尋ねるのに尽くす丈の、愚かな手段は尽くし尽くした。そうして彼が其の間に立ち寄る家と言えば、唯だ真部老人の許のみである。

 此の老人は、昔し我が父が、余所ながら私の姿を垣間見ようとして、故々(わざわざ)巴里の教会堂の庭へ忍んで来た頃に、其の教会堂に居て、父の姿を身、其の後、父の事を私に知らせて呉れた人である。此の人は既に八十一歳の高齢では有るけれど、守安の様な少年と親交が続いて居るのは、双方とも貧乏な為である。

 貧乏と貧乏とは話が合う。併し八十を台にした人の貧乏は、二十を台にした人の貧乏より辛いだろう。其の辛さが気の毒だから、守安は助ける事も出来ないけれど立ち寄って、未だ老人が首も縊(くく)らずに居るのを見届けて、安心する程の次第だ。

 或時彼は老人から聞いた。
 「昨夜、ここへ来て貴方の今の住居を聞いた人が有りましたよ。」
と、余り不思議だ。未だ世の中に、此の守安の事を気に掛けて居る人が有るのだろうか。
 守安「何の様な人でした。」
 老人「夕方で老眼には良くは見えませんが、十七八の女かと思われました。」

 守安「エ、姿は良く見えなくても、声は聞こえたでしょう。」
 老人「声は却(かえ)って男かと思われる様に濁った声でした。」
 少しも分からない。声の濁った女とは、イヤたとえ声の爽やかな女だとしても、守安を尋ねる筈は無い。
 老人「私は知らないと答えました。」

 此の又翌日である。守安は当ても無く町を徘徊した末に、但有(とあ)る広小路の樹の陰に休息して居た。忽(たちま)ち背後から濁った声が聞こえた。
 「アア到頭見附かった。守安さん、守安さん。」
 驚いて振り向くと、十七八の娘である。娘とは名ばかりで、実は見る影も無い乞食だ。

 守安は目に角を立てたが、良く見れば手鳴田の娘。確か絵穂子(イポニーヌ)と言ったのだ。
 多分は町に寝、風に吹かれ、咽喉(喉)を破った者だろう。男の様な声である。
 絵穂子「其の様な剛(こわ)い顔をするには及びませんよ。貴方は私に、捜しものを頼んだ事を忘れましたか。」

 守安「エ、私が捜し物を、貴女に」
 絵穂子「頼んだでは有りませんか。是れが分かれば、私の言う通りのお礼をすると言って。」
 守安「アア」
 絵穂子「ソレ白髪頭の慈善紳士に連れられて居た、美人の所番地をさ。」
 守安は神の声にでも接した様に感じた。
 「エ、其の所番地が分かりましたか。」

 絵穂子「分かったから知らせて上げるのです。私は親切でしょう。」



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