巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百十六  家は空であった

 若しも絵穂子が此の様に悪人等を遮らなかったなら、庭の中に居る守安と小雪とは、何の様に騒がされたか、計(はか)り知れない。
 守安は少しも、絵穂子から何の様な恩を受けたかを知らない。無事泰平に小雪と共に愛の天国に遊んで居る。

 けれど此の夜は愛の天国が毎(いつ)もほど平和で無かった。今まで二人は、此の楽しい密会が何時までも続く様に思い、少しも後々の事などは考えなかった。此の夜小雪は守安に向かい、非常に心配そうに、
 「大変な事に成りましたよ。」
と訴えた。

 「エ、大変とは何の様な事ですか。」
と守安は慌てて問うた。 
 小雪「阿父さんが、私を連れて近々外国へ引っ越すと言うのです。」
 成る程大変である。二人に取っては国家社稷(しゃしょく)が亡びるとも、二人の中を引き分けられるほど重大な事は無い。

 守安「エ、外国へ」
 小雪「ハイ英国へ」
 守安は真っ赤に成った。夜だから其の色は良くも見えないけれど、我が身と小雪との間を割く者が有るかと思うと、殆ど腹立たしく感ぜられる。

 「シテ貴女は、其の英国行きに同意したのですか。」
 同意するもしないも有るものか。娘の身として父の言葉に不同意を言う筋は無い。
 小雪「だって、阿父さんの言葉ですもの。」
 守安「では私を此の国に捨ててですか。」
 毎(いつ)もの優しい守安の語気とは思われない。

 小雪「ですから、何うすれば好かろうと貴方に相談するのです。」
 守安は言い切った。
 「貴女と分かれる事になれば、私は一日も生きては居ません。」
 勿論嚇(おど)かしでは無い。本当の決心である。

 小雪「何うすれば好いのだろう。」
 ここに至って守安も思案に窮した。通例ならば、駆け落ちして夫婦になれば野合の夫婦である。小雪も自分も再び世間に顔向けの成る身分とは為らない。二人ともに汚辱の底に沈むのだ。自分は兎も角も小雪をその様な汚辱の底に沈ませて、生涯浮かぶ瀬も無い事にするのは、到底守安の耐(こら)え得る所では無い。

 二人は泣きつ嘆(かこ)ちつして夜の更けるまで相談した。門前に悪人等と絵穂子との押し問答の有る事なども勿論知らなかった。併し幾等相談を重ねても、外に工夫の有る筈は無い。唯だ守安と小雪が至急正式に結婚し、夫と言う守安の権利を持って小雪を引き留める一方だ。

 短く言えば父から小雪を奪い取るのだ。是れに漸(ようや)く相談が決まった。
 正式の婚礼とは、言うに易くて行うに難い。第一に年が二十五歳に満ちない男子は、父又は後見人の承諾なしに結婚することは出来ない。守安の年齢は満二十一歳の余で、未だ二十二にさえ満たない。自分勝手に婚礼する資格は無い。

 しかし戸籍上の父と為って居る、彼の桐野家の老主人の承諾を受けるには、既に五年も前に勘当せられ、音信が絶えて居るのだ。けれど、其の承諾を得る外に道は無い。守安は辛い思いで終(つい)に思い定めた。

 幾等老人が頑固でも、良く詫び入った上、事情を打ち明けて、切に頼めば、許して呉れない事も有るまい。自分と小雪との生き死に拘わる事だから、何の様にも言葉を低くくして、哀訴嘆願して見ようと、強情な守安がこの様な迄の心を起こすとは、よくよくの事である。そうして彼は小雪に告げた、

 「婚礼の用意には何しても二日掛かります。明晩は其の為に、ここへ来る事が出来ませんから、明後日の夜、九時には必ず吉報を持って来ます。」
 彼は二日あれば桐野老人の承諾が得られると思って居る。
 翌日の日暮れに及び彼は、高い桐野家の敷居を跨(また)いだ。

 勿論可愛い孫だから老人は上辺に怒って、内心は喜んで居間に通したけれど、此の老人、年は既に九十の上を越し、益々貴族堅気の頑固が募って居る。守安から婚礼の事を聞くに及び、
 「相手の身分はーーーエ何爵だ。」

 守安「爵などは有りません。単に正直な紳士の娘です。」
 老人の顔は曇った、
 「フム爵位は無いが、財産はーーー定めし爵位の無いのを償(つぐな)って余るほどの金持ちだろうな。」
 守安「私と同じ程の貧乏です。」

 老人は狂人にでも逢った様に怒り、唯だ一声高く、
 「守安」
と叫び更に、
 「其の方が襯衣(シャツ)の着替えも無く、先方が穿(は)き替え足袋(たび)も無くて、婚礼して何処に寝る。橋の下か。」
 守安は火(くわっ)として、
 「其れは余りな仰(おっしゃ)り方です。阿父(おとう)さん。」

 「阿父さん」
と、親身の言葉に呼ばれるのが老いの身には何より嬉しい。老人は忽ち心が解けた様に、
 「許せ、許せ、俺の言葉の荒いのは何時もの癖だから。許して呉れ、守安、オオ好い工夫が有る。ナニ、俺もな。若い時には満更其の様な経験が無いでも無い。教えて遣ろう、先がその様な貧乏なら、婚礼には及ばない。半年なり一年なり、密かに其の女を弄(もてあ)そび、そうして嫌に成った時、手切れを遣れば好い。手切れの金はサア俺が出して遣る。」
と言って早や用箪笥の方を見返った。

 守安は全く烈火の如しだ。
 「貴方は五年前に私の父、男爵本田圓の名を侮辱しました。今は又、私の妻を侮辱なさる。此の上貴方から聞く事は有りません。」
と言い切って、立ち去ったのは早や夜の更けた後であった。

 真に百計の尽きたとは守安の此の時の事である。彼はもう此の世に何の望みも無い様に感じ、夜一夜を、当途(あてど)も無く市街を徘徊して明かした。
 この翌日は即ち千八百三十二年六月の五日である。巴里に有名な革命の市街戦が起こった初日で、守安の友人は孰(いず)れも之に加わり、中には主動者と為ったのも有った。

 守安一人は、頭に政治の事も革命の事も、元は満々ちて居たけれど、今は其の影をも留めない。全く小雪の姿のみが脳髄を塞いで、他の一切の事柄を脳の外へ駆逐した様な者だ。
 夜の九時に及んで、彼は約束の通り小雪の許を尋ねて行った。けれどその家は早や空で有った。



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