巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百十八  一揆軍 一

 恋の絶望は、死に終わるのが多い。生きて此の世に苦しむよりは、死んで何事も忘れた方が安楽だと言う気になる。今、守安の境遇が全く其れなんだ。
 此の様に死を決した場合に、丁度戦争が始まって居て、討ち死にすることが出来るとは、実に勿怪(もっけ)の幸いである。守安は喜んだ。天が此の様な機会を我に与えたのだと信じた。彼は「死ぬのだ。」と呟いて、サン・デニスの堡塞(ほうさい)《砦》を指して行った。
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 ここに聊(いささ)か此の戦争の起こった次第《経緯》を述べて置こう。抑々(そもそ)も国と言う者には、大いに進歩しなければ成らない時が有る。此の時の仏国が丁度其れだ。数十年来打ち続いた革命の内乱から、引き続いて拿翁(ナポレオン)の戦いと為った後の事で、人民は疲れに疲れ、最早や平和を以て民度を進めるより外は無いと言う思想が一般の心に満ち盈(み)ちた。

 特に敵国とする独逸や英国の様を見ても、仏国は大いに文明の政治を行い、活発に内治を改良して、国家の面目を一新しなければ成らない。所が此の時の政治が全く無能で有った。上には優柔不断な国王が居て、老朽の内閣が之を助け、行政も紊(みだ)れ、財政も衰え、国の自慢とする陸軍も腐敗した。其の上に、対外戦争の余弊として、国中一般に恐ろしい不景気が来て、金融の道も止まった。

 世に不景気と言うほど恐ろしい事は無い。是が来れば、少しも政治の事を知らない愚民まで政府を怨む事になるのだ。
 況(ま)して聊(いささ)か心ある人は、深く国家の前途の為に憂い、何うしても此の様な無能の政府を戴いて居られないと言う気に成った。其れが為に、不平党の倶楽部が到る所に興った。

 或いは社会問題の研究を名とする者も有る。或いは知識の名の下に、青年学生が団結し、或いは慈善の看板を以て、老成の人が集合の道を開くなど、言わば巴里の全市が全く不平者の密会所と為った様な者であった。

 けれど政府は少しも之を顧みない。イヤ顧みて徒(いたずら)に探偵を放つけれど、政府の根本を改革して、人民に安堵の思いを為さしむるなどと言う念は、毛ほども無かった。其れが為に不景気は益々不景気、不平は益々不平と為り、一般人の憤慨が、日に日に募って、果ては何処の居酒屋へ行っても、不平を聞き、不平を言う為に集まる者が多い。  
 真に革命の気が社会の最下層まで侵入(しみい)ったのだ。

 宛(あたか)も此の時の景状は社会が噴火山の頂上に載せられた様な者だ。何時破裂するか知れない。誰もが外へ出るのに、何等かの武器を隠し持って居ないのは無い。何時でも政府を叩き毀(こわ)す積りである。時々は居酒屋の様な、人の集まって居る場所から、他の又人の集まって居る場所の間を奔走して、主立(おもだ)つらしい人の耳へ何事をか細語(ささや)いて去る人が有る。何だか秘密の打ち合わせか又は旗挙(はたあ)げの合図らしく見える。
 其の度に居合わす人は、顔と顔とを見合わせて銘々自分の腰や懐に在る凶器を、念を押す様に撫でて見る。全く是が物騒の極点と言う者だ。

 之を又譬(たと)えて見れば、巴里の全市が、丸込(たまごめ)をした大砲の様な者だ。唯だ一点の口火を差す人さえ有れば、直ちに爆然として放発するのだ。けれど此の危険な勢いが迫り迫って、終に口火は差さずとも、自然に爆発する迄に熟した。人の憤慨する心の熱が、自ずから火を発したと言っても可(よ)かろう。

 時は是れ千八百三十二年六月の五日である。有名なラマルク将軍が死んで、其の葬式が出た。誰れ言うと無く、誰誘うと無く、此の日が政府を叩き毀す発端だと言う事が、人の心に満ちた。今まで此の様に多勢(おおぜい)の人が出揃った事は無い。将軍の葬式を見ると言うのが口実で、誰も彼も皆其の道筋へ集まった。そうして誰も彼も皆思って居る。

 革命の端緒《糸口》は何処の町から起こるだろうと思い、且つ待って居る。若し此の様な気の立った群衆の中で、巡査の帯剣の端が軽く群衆の中の一人の袖に触れても、其れが一揆軍の発端になるのだ。

 人民の勢いが此の通りだから、幾等無能の政府でも、気の附かない事は無い。イヤ無能の政府だけ、却(かえ)って此の様な事には良く気が附いて良く用心する。此の日儀仗とか護衛とか言う名を以て、市中に散布せられた兵の数は二万人、街尽(まちはずれ)の要所要所へ配った兵が三万人、併(あわ)せて五万の兵である。地方の兵営からまでも召し集めた。


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