巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou120

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

since 2017.7.30


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十 軍中雑記 一

      ▲其一 首領と酔漢 

 半日の間に、市中の要所要所に出来上がった二十七堡塁の中の一つは、彼の守安の属する、「ABCの友」の青年等が建ったので有った。場所はサン・デニスの付近ショーレリ街の大酒店コリンス亭の前である。
 此の青年等は、ここに官兵を引き受けて、討ち死にする積りなんだ。命の有らん限り革命の為に戦う積りなんだ。身の程知らずと言わば言え。其の勇気は愛す可(べ)しだ。今の学生には此の気概が無い。

 此の朝、一揆と官兵との衝突の有るや否や、第一にここへ馳せ附けたのは、女にもして見またいと思うほどの紅顔の優(や)さ男で有った。此の男、年は二十歳の上を僅かに超えたのみであるけれど、「ABCの友」の首領なんだ。心に何(ど)れほど猛烈の気象を備えて居るかは、何人も量り知ることが出来ないと言って敬服されて居るのだ。名はエンジラと言う。

 エンジラの馳せ附けた時、既に一人の酔漢(よいどれ)が此の酒店に居た。此の酒店は兼ねて青年の集会所と為って居るのだから怪しむには足りない。エンジラは酔漢を睨んで、
 「又酒びたりか。吾(わが)党の戦死する時が来たぞ。」
 此の酔漢は党中の最も無能な一人である。何の為に此の様な青年革命党に加わって居るかと言えば、唯首領エンジラの勇ましく且つ美しい姿と心とに引かれたのだ。此の者は名をグランタと言う。酒に心酔すると同様に首領エンジラに心酔して居る。彼は眼を据え、酒臭い呼吸を吐き、

 「何、戦死する時が来た。面白い、面白い。首領の死ぬ時には、吾輩だって死んで見せる。」
 言いつつ立ち上がろうとしたが、早や腰が抜けて居る。
 首領「アア汝は吾が党の面汚しだ。サア立って来て手伝いでもしろ。此の町に堡塁を築かねば成らない。」

 酔漢「首領のお言葉でも其れは無理だ。昨夜より飲み続けて、腰の立たない者に手伝えとは、イヤもう一瓶傾けて一眠りした上で無くては。給使(きゅうじ)、給使、酒を持って来い、酒だ。酒だ。」
 其のうちにコンバハと言う副首領を初め、様々の人が馳せ加わり、銘々に力を尽くして、或いは荷車、或いはテーブル、或いは空樽などを持ち出して、高大な堡塁を町の真ん中に築き上げた。粗末では有るけれど、攻め寄せる官兵に取っては非常な邪魔である。

 この様に人々の働く間も酔漢グランタは唯酒を呑む許(ばか)りで、何人に叱られても気にせず、
 「ナニ俺だって、死ぬ時には死んで見せる。其れ迄は先ず寝かせて呉れ。折角心地好く酔って、一眠りしようと思えば、手伝え、手伝えと、こう眠くては何も出来ない。先(ま)ず寝かして貰おう。俺だって、死ぬる時にはナー」
 幾度か管を巻きつつ其の儘(まま)酒台の下にゴロリと横に成った。実に革命の健児の中にも、此の様な者が有るとは、世は様々と言う可(べ)きだ。
 
       ▲其二 三郎と蛇兵太
 日の暮れに及ぶまで砲声は所々に聞こえるけれど、未だ此の堡塁へ迄は官兵の手が廻って来ない。其の間にと首領エンジラは、四方の町の角々へ哨兵を配り、そうして塁の中に居る幾多の人々に、或いは篝(かがりび)の用意をさせ、或いは火薬の包みを作らせ、或いは武器を集めに遣るなど、其々の用事を言付けて居る。彼は真に申し分の無い首領である。

 凡そ此の時までに此の塁へ来て加わった者は幾人と言う数を知らない。其の中に一人、十一二歳と見える小僧が居る。此れは彼の手鳴田の息子で「町の子」と称せられる三郎なんだ。彼は様々の走り使いに甲斐甲斐しく立ち廻って、大人よりも役に立つ為め、少なからず人々の贔屓(ひいき)を得た。唯だ彼は、敵と戦う可き鉄砲を持たないので、自ら遺憾に堪(た)えないと見え、人の持っている鉄砲を羨ましそうに眺めては、時々首領エンジラに向かい、

 「伯父さん、此の小僧にも鉄砲をお呉れ。小僧は幾等でも働くから其の褒美に、ねえ伯父さん。」
 エンジラは笑って、
 「未だ大人にさえ銃器が行き渡って居ない。先ず大人の方に余ったら汝に遣る。」
 小僧は情け無い顔をして、
 「では何処からか捜して来るわ、捜して来たら小僧にお呉れよ。」
と言い、暫く姿を隠したが、やがて彼は生意気なほど重々しい顔して首領の傍に来て、声を低くして、

 「伯父さん、此の中に政府の探偵が居ても好いのですか。」
 敵の探偵の入り込んで居るほど危険な事は無い。エンジラは眼を光らせ、
 「何だと、探偵」
 三郎「小僧は嘘なんか言いはしないや、アレ彼処(あそこ)に居る背の高い人を調べて御覧よ。」
と言い、隅の方に銃を肩にし神妙に控えて居る一人に指さしつつ、

 「ここに居る人は誰も彼の人の顔を知らないや。知って居るのは小僧ばかりだ。」
と言足した。
 エンジラは直ぐに屈強の男四人を呼び、之に耳打ちし、引き連れて、今小僧に指さされた神妙な人の傍に行き、
 「貴方は何方(どなた)です。」
と問うた。神妙な男は驚いて首領の顔を見た。けれど返事が直ぐには出ない。此の素振りが全く明白だ。

 エンジラ「其の筋の探偵でしょう。」
 神妙な人は頷首(うなず)く様に、
 「アア素人の目でそう見たのは感心だ。」
 何と言う横着(おうちゃく)《図々しい》な言葉だろう。エンジラは浴びせ掛ける様に、
 「其筋の探偵でしょう。」

 神妙な男「イヤ、政府から特派された吏員です。」
 言葉は違っても其の実は同じ事だ。
 エンジラ「名は何と」
 神妙な男「巡査監督蛇兵太(ジャビョウタ)」
 名乗るや否や四人の男が彼を捕らえ、直ぐに身体を捜索した。果たして一枚の鑑札が出た。

 「巡査監督蛇兵太、年五十二歳」
と有る。次に其筋の命令書が出た。
 「汝はショーレリ―街のコリンス亭に入り込み、何者の集まるかを報告す可し。」
 もう疑う所は無い。敵の間諜(かんちょう)《スパイ》ならば無論に銃殺するのだ。
 「銃殺、銃殺」
と幾人か同音に呟いた。

 エンジラは
 「無論です。」
と答えた。
 三郎はこれを見て雀躍(こおどり)りした。
 「面白いなア、小僧鼠が大きな猫を捕まえた。良く取った。伯父さん、此の大猫を射殺すれば、此奴の持って居る鉄砲は此の小僧鼠が貰いますよ。」


次(百二十一)へ

a:402 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花