巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百三十一 エンジラの最後

 此のとき守安にも劣らぬほど闘って居たのは首領エンジラだ。
 エンジラはもう如何ともする事の出来ない場合と為り、四辺(あたり)を見廻したが、一人の味方も目に留まらない。今まで見えて居た守安さえも見えない。扨(さ)ては殺されたか捕らわれたのだろう。愈々(いよいよ)俺も最後が来たと、退いて酒店の戸口に立った。
 店の中には彼より先に逃げ込んだ者が幾人か有る。此の者等は、前に剥ぎ取って置いた町の敷石を担ぎ上げて、二階から官兵の群がる頭上に投げ降すなど目覚しく働きつつも、雨の様に注ぐ弾丸に独り死に二人死に、段々と減っている。エンジラが斯く店先に立った時は、生き残って居る者が有るか無いか分からない程だった。

 先ず人を逃がして、一番な後で逃げ伸びる船長の如く、彼れは戦場を見廻した。其れと見た官兵が、彼を戸口へ推し詰める積りで幾人も詰寄せるのを、彼は振り廻す鉄の棒で横殴りに殴り倒した。彼の鉄砲はもう鉄の棒に代用せられる外には用を為さない。爾(そう)して敵の聊(いささ)か怯(ひる)む間に、手早く戸の中に入った。二度目に官兵が、波の如く彼を襲った時は、早や店の戸が閉まって居た。直ぐに官兵は力を揃えて戸を叩き破り始めた。

 中に入ったエンジラの手際は飛鳥の如くである。彼れは手早く戸を開いて手早く戸を締め、直ぐに戸に閂木(かんぬき)を指した。戸の中には、猶(ま)だ裏表の町から剥ぎ取って来た敷石が、塀の様に積み重なって居る。彼は独り叫んだ。

 「何(ど)うせ死ぬのだが、手易くは死んでは成らぬ。」
 此の場合に至ってもまだ絶望しないのは、非凡の気骨だ。
 戸を叩き割る凄まじい音を聞きつつ、彼は床板を取り外し、自分は卓子(テーブル)を盾に取って立った。

 戸は直ぐに毀れたが、得たりと言って先を争って襲い入る官兵の人波は、深い床の下へ雪崩の様に転げ落ちた。落ちた人で床は埋まって、埋まった上に立って這い出ようとする頭を、彼は床板で叩き割り又叩き割った。けれど滾滾(こんこん)と尽きずに流れ入る人波には、長く抵抗する事は出来ず、間も無く大勢に取り囲まれ、二階へ上る道さえも塞がれて、唯前に卓子(テーブル)、背後(後)には壁、手には持つ床板さえも無くなった。もう何の武器も無い。

 彼は光る眼で、群がる官兵を睨み附けた。是が彼の最後の防御である。こうなると大勢の人波も却って逡巡(尻込み)する様に見えた。指揮官らしい一人は流石に事に慣れて居る。
 「射殺せ、射殺せ。」
 命令と共に、前から右から左から、十余の銃口(つつぐち)がエンジラの身に集まった。指揮官は又叫んだ。

 「待て」
 こうなれば急ぐ必要は無い。
 「打て」の一声でエンジラの身は微塵と為ってしまうのだ。指揮官は静かにエンジラに向かい、
 「貴方は首領ですか。」
 エンジラ「爾(そう)です。」
 指揮官「アア年も行かないのに惜しい者だ。此の場合と為っては、許すことは出来ませんから、せめて目隠しを施して上げましょう。」
と情け深い言葉を吐いた。

 真にエンジラの美しき顔を見れば、誰でも是れだけの情けは起こる。双方は武器を以て戦って居る間こそは、誰を射殺すにも何の容赦とて無いけれど、唯だ一人、寸許の武器も無く銃先(つつさき)に立つのを見ては、流石に忍びない所が有るから、せめては悪怯(わるび)れる醜態を丈でも除いて遣(や)ろうと、目を隠して遣る心にも成るのだ。

 エンジラは何と言う豪胆だろう。
 「イエ其れには及びません。」
 言い切って瞬きもせず、静かに多くの銃口を眺めて居る。


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