巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou134

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百三十四 哀れ戎瓦戎 二

 常に一眼を守安に注いで居た戎瓦戎は、守安が仆(たお)れたと見るや否や、直ぐに馳せて行って抱き上げた。何うか此のまま何処へか連れて行って、介抱することが出来ないだろうかと、忙がしく四辺(あたり)を見廻した。
 若し、切めて五分間も早かったなら、或いは逃道が有ったかも知れない。今は蟻の這い出る隙間も無い。

 又若し、此れが通常の死骸ならば、家の中へ運び入れることは出来よう。けれど之は死骸で無い。事に依ると猶(ま)だ息が残って居かも知れない。何所か無難な所へ連れて行って、静かに手当して見なければ成らない。此れを家の中へ連れて入れば、必然に敵の手に落ちるのだ。

 家はもう咄嗟の間に敵兵に蹂躙せられるに決まって居る。アア、何が何でも敵兵の囲みの外へ、逃げて出なければ成らない。其の外には一法無しだ。
 戎は思案も定まらずに裏町の方へ逃げた。纔(わずか)かにここの一角の間だけ敵兵が途切れて居る。けれど其れは単に一角だ。

 右の角へも左の角へも出る事は出来ない。出れば直ぐに捕らわれるのだ。それに此の途切れも、唯一分か二分の間に過ぎない。表から家を攻めて居る敵兵が裏口からも攻めに来るのは必定だ。気の所為(せい)か知らないけれど、戎の耳には早や敵の士官が、
 「裏口へ廻れ、裏口へ廻れ」
と叫ぶ声が聞こえる様な気がする。

 真に必死だ。
 何とかして逃げなければ成らない。其れも今直ぐで無くては成らない。戎は前後を見廻した。前は六階の高い家で、家を隔てた彼方からは、雲霞(うんか)の様に群がって居る敵の騒ぐ声が、波の様に聞こえて居る。彼れは今より八年前、警吏蛇兵太に追い詰められて、丁度此の様な場合に立った。此の時は小雪を連れて居た。今は死骸も同様の大の男を抱えて居る。

 其の時は逃れる事が難(むずか)しかった。今は難(むずかし)いを通り過ぎて、全く出来ない場合と為って居る。其の時は縄を捜して尼寺の塀に掛けた。今は縄も無い。其れに目の前は尼寺の様な無難な所と事が違う。もう万に一つも逃れる所が無い。空を飛ぶ鳥ならば兎も角、地を潜(もぐ)る土竜(もぐら)ならば兎も角、人間には絶望だ。

 アア此の身の運が今ここに尽きたのかと、戎は歯を噛んで悔やんだ。もう何うにも仕方が無い。彼は涙さえも出ない乾いた眼で、真に悔しさに我慢が出来ない様に、唯だ大地を睨み詰めたが、地の一方に薄々と異様な一物が現れた。現れたのでは無い。元から在ったのだけれど、現れた様に彼の眼に映じて来た。

 此の辺の町も表町と同じく革命党の剥ぎ取った敷石が散乱(ちらば)って居る。其の一個の下に当たる所に、頑丈な鉄の格子が見えて居る。此の格子は何だ。地下に通ずる下水の樋の掃除口である。格子の大きさは纔(わずか)に二尺(60cm)四方も有ろうか。彼は佶(きつ)と之に目を据えた。

 通例の人に取っては、此の掃除口が何の思い付きにも成ら無い。併(しか)し彼れは之を見ると共に、昔心に浸み込んだ、脱牢の巧みな工夫が胸の底に動いた。彼れは直ぐに其の所に馳せ寄り、鉄の格子に手を掛けて引き起こしたが、重い石も重い格子も彼の怪力には敵しない。間も無く掃除口の蓋(ふた)が開いた。

 ここに至ると、彼は殆ど狂人の様である。自分で何をして居ると考える事もしない。若し考えてすることなら、此れほどの力は出ない。何事をも打ち忘れて、全く夢中の有様で只管(ひたすら)に悶(もが)くから、人間に無い様な力も出るのだ。

 彼は肘を張り足を延べ、身を半分だけ其の穴に入れ、穴の四壁を突っ張って身を支え、死骸の様な守安を肩に載せて、地の下に沈んだ。沈むと同時に石の乗った鉄の格子は元の様に地に塞がった。
 嗚呼、戎は下水の樋の中に沈んだのである。是で逃れることが出来ようと思って居るだろうか。

 何うかすると市中で追い詰められた凶漢などが、下水の樋へ潜り込むことはある。けれど下水は逃道の様には出来て居ない。逃げ果(おお)せることは出来無い。
 其れに巴里の警察は、下水をば悪人を陥(おちいら)せる網の様に心得て居る。捕り物の有る場合には下水に気を付け、曲者の姿が紛失すれば、其の辺の鉄の蓋を引き開けて、下に蹙(すく)んで居る姿を認めて、釣り上げるのだ。

 何でも下水の中に落ちれば、其処に蹙(ひそ)んで居るより外仕方の無い様に出来て居る。戎は其の事を知って居るか知って居ないか。併し彼の場合は、知る知らぬに拘わらず、下水に潜る外は無かったのだ。唯だ此の様な場合に落ちた、彼の身が憐れむ可しだ。而も自分の為では無く、唯だ人を助ける為に、唯だ善の為にだ。

 誠に此の社会に於いては、善を為す方が動(やや)もすれば、悪を為すよりも危険である。のみならず、下水の樋は、巴里の町筋に入り乱れて居る様に、地の下に於いて入り乱れて居る。巴里の町は昼間、聞き聞き歩んでも路に迷うことが多い。況(ま)して地の下の下水の樋に入り、四辺を見る明りも無い、道を問う便(よす)がも無い。

 中には此の中へ隠れて、其の儘(まま)出る事の出来ない為に、死んで了(しま)うのも有る。大掃除の時に、何うかすると其の様な死骸が見つかる。戎はもう死骸と為っての外は、此の世には出られない者と思わなければならない。


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