巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou138

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百三十八 哀れ戎瓦戎 六

 戎瓦戎が底無し沼で死ななかったのは、実に不思議である。彼れは泥塗(どろまみ)れになって助かった。けれど彼の力は全く尽きた。幾時か茫乎(うっとり)として暗渠(あんきょ)《地下水路》の壁に凭(もた)れたが、やがて遽然(きょぜん)《驚喜して》として心附いた。こうしては居られない場合だ。

 彼は直ちに守安の身を検めた。死んだろうか。未だ生きて居るだろうか。死人と殆ど区別は無いが、有難い、纔(わず)かに息が通って居る。猶更(なおさら)早く介抱の出来る所へ連れて出なければ成らない。

 彼は又進んだ。何処まで進めば助かるか、全くの闇の中だから更に見当が附かない。けれど進んだ。けれど彼れは疲れて居る。幾度暗渠(あんきょ)の壁に凭れて休んだか知れない。或時は殆ど絶望した。到底出る所までは達せられ無いかも知れない。

 もう何うにも斯(こ)うにも身が動かないまでに至った頃、行く手に微かな明りが見えた。此の明りが丁度、底無し沼の中で足に障(触った)った地盤の様な者だ。是が無ければ彼は崩折れ(くづお)れて了ったのだ。唯だ此の明りに励まされて彼は疲れをも忘れた様に成った。

 其れに又、底無沼を経て以来は、溷(どぶ)の底が幾分か綺麗である。汚い水や足に搦(から)む芥(ごみ)などが無い。彼は少しの間に明りの射す所へ達した。ここは全く出口である。圓(まる)い石門が建って居る。
 彼は石門の許に行ったが、頑丈な鉄の格子戸を閉(と)ざしてある。此の戸を開くことが出来るだろうか。

 彼れは格子に手を掛けて揺(ゆす)ぶったが、ぴくともしない。堅く錠が下りて居るのだ、押すも無益、叩くも其の甲斐が無い。此の時の彼の絶望は何に譬(たと)えることが出来るだろう。辛い思いで茲(ここ)まで来たのに、人間の世に出ることは出来ない。今一歩と言う所で運が尽きた。

 再び引き返す外は無いが、其れは到底出来ないことだ。再び底無沼を渡る力は其の身に残って居ない。たとえ渡った所で、何所に安全な出口が有ろう、総ての出口が此の通りに違い無い。今まで地の底の下水の樋へ逃げ込んだ悪人が、大抵出ることが出来ずして、死骸と為ったのは、総て戎の様な境遇で有ったのだろう。

 「アア俺一人では無い」
と戎は呟(つぶや)いて見たけれど断念(あきら)められ無い。而も格子の外には、余り遠くも無く石段が見えて居る。是を上れば外はきっと未だ日も暮れ切ら無いだろう。其れに何処かから水音も聞こえる様だ。多分は下水の注ぐ河の辺りだろう。そうとすれば巴里の中でも極淋しい町尽(まちはず)れだから、若し此の石門を出ることさえ出来たなら、それほどまでの苦労も無く助かるのだ。

 彼は情け無い余りに大地に座り、石門の戸を見詰めて居た。もう何とも思案が浮かばない。此の時、忽ち背後から戎の肩を押す者が有った。
 「コレ獲物は山分けだぞ。」
との声が煙草の臭気と共に聞こえた。

 戎は何事かと振り向いた。一人の風体の悪い男が立って居る。此の様な下水の樋の中に、我より外に人が有ろうとは。殆ど多分は人間の世に棲むことが出来ずして、隠れて居る悪人だろう。戎は呆れて其の顔を見たが又呆れた。此の人は是れ手鳴田なんだ。

 此の様な所で此の様な奴と、又決闘しなければ成らないのだろうか。兎に角も我が顔を見認められては都合が悪いと、直ぐに戎は向き直して座り、自分の顔を影にした。
 「コレ儲けは山分けと極まって居るじゃ無いか」
と又も手鳴田は催促の様に言った。

 戎「何だと」
 手鳴田「白ばっくれても駄目だ。此の下水の中を、死骸を擔(かつ)いで逃げる奴に、正直な人間が有る者か。貴様は外国の紳士か何かを、下水の中へ攫(さら)って来て、殺したのだろう。既に其の筋で下水の大掃除を初めて居るから、直ぐに死骸を見出されては危険だと、河へ投げ込む積りで茲(ここ)まで持って来たのだ。

 言わなくても俺には分かって居る。けれど底無沼を良く越したなア。其の様な手際は俺より余つぽど上手(うわて)だが、其れでも此の鉄の戸を開く者と思ったのは見当違いだ。サア山分けにするかしないか、するなら此の戸の合鍵は、俺が持って居るから開いて遣るぞ。」

 好まない相手では有るけれど、合鍵を持って居ると聞いて、戎は心に感謝の念が湧いた。之こそ神が手鳴田の様な悪人を使って、我を助けさせるのでは無かろうか。
 手鳴田「ソレ縄までも貸して遣るぞ。」
 戎は初めて口を開き、
 「縄を何にする。」

 手鳴田「死骸を河へ投げ込むのに、縄で石を結び附けなければ直ぐに浮き上がって足が附くでは無いか。悪人に似合わない悟りの悪い奴じゃなア。石は此の外へ出れば、溷(どぶ)修繕の用意に積んであるから、手頃なのが幾等も有る。サア早く山分けを寄越さないか。」

 戎は衣嚢(かくし)の中に手を入れたが、一杯に泥が満ちて居る。手鳴田は面倒に思ったか、俯いて自ら手を下し、戎の衣嚢を探った。探りつつも彼は殆ど手品師の様な早業で、守安の外套の端を少しばかり裂き取った。之は他日強談(ゆすり)か何かの種に使う積りだろう。何事にでも自分の方の証拠を消して、人の証拠を保存するのが、悪人学の「いろは」である。

 探り集めた金が彼是三十法(フラン)ばかり有った。
 「たった是ばかりか、貴様は大層安く人を殺したなあア」
と批評したが、但し山分けと言う約束は忘れたと見え、其の金は残らず自分の懐中に捻じり込み、直ぐに自慢相に、

「此の合鍵の旨く出来て居るのに感心しろ。」
と言い、易々と戸を開いた。戸は錆(さび)て居るけれど、此の頃しばしば油を差すと見え、音もせずに開いた。戎は満腔(まんこう)《心いっぱい》の感謝を神に捧げて、守安を擔(かつ)ぎ直して、無事に石門の外に出た。



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