巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou139

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳  

   百三十九 哀れ戎瓦戎 七

 戎は漸く石門の外に出た。此のとき日は既に暮れ方である。彼は下水の樋の中で凡そ四時間ほど苦しんだのだ。
 是から何所へ守安の死骸を持って行こう。彼は死骸の衣嚢(かくし)を探った。死骸では無い。微(かす)かに心臓が動いて居る。そうして衣嚢(かくし)の中から取り出した手帳を検めると、
 「余の死骸は貴族桐野家へ送り、余の祖父に渡されよ。」
とのことを書いて有る。是で先ず思案は極まった。

 けれど連れて行く途中さえ心配だ。何の様な変が有るかも知れない。何とか手当する道は無いだろうかと思いつつ、石門の外の石段を上った。彼れは初めて人間の世に出られた。  
 見ると此所は、思った通り川の傍である。切めては守安の顔に塗(まみ)れる、血だけでも洗い落とさなければ、人に怪しまれ、警官に咎められるかも知れない。

 警官の咎めと言うことが戎に取っては、何よりも恐ろしいのだ。彼は川の土堤を下り、水際に身を屈め、手拭を水に濡らして守安の顔を撫でた。
 この様な事をする間も、彼は何だか不安の念に襲われて居る。何だか我が背後に立って、我がすることを眺めて居る人のある様に感ずる。彼れは振り向いて背後を見た。果たしてである。背の高い厳めしい一人が立って居る。

 少しの間に二度までも、同じ様に背後から見咎められるとは、不思議では無いけれど、偶然とも思う事は出来ない。前に石門の内で見咎めたのは手鳴田であった。彼は却って幸いを我に与えた。今茲(ここ)で見咎めたのは何者だろう。是は蛇兵太である。戎は自分の眼の間違いかと思うほどに驚いたが、全くの蛇兵太である。

 蛇兵太は、堡塁に入って手柄を立てることが出来なかったから、更に別の功を立てて償う積りで、早や此の處へ出張したのだ。彼は手鳴田の一類が、此の辺に出没することを嗅ぎ附けて居る。
 彼は鋭いけれど落ち着いた声で、
 「汝は何者」
と咎めた。

 戎はもう何も彼も覚悟した。覚悟しない訳に行かない。茲(ここ)で蛇兵太に見附けられたのは百年目である。
 今までの幾年もの艱難辛苦は、唯蛇兵太に捕らえられまいとの為であった。之が為に尼寺の塀をも越した。之が為に手鳴田の二階の窓から逃げもした。

 けれど今は逃れられない。逃れる道の無い様に出会(でくわ)した。遺憾ながら仕方が無い。再び終身懲役の、元の牢に引き戻される丈だ。此の後の余命を牢の中に送るのだ。

 アア戎瓦戎と言う此の身は、牢に入り牢に老い、死ぬことに前以て命数が定まって居るのか。余りに情け無い訳だ。
 自分の身は断念(あきら)めるとしても、小雪は何うなる。小雪の為に断念(あきら)められない。
 けれど断念(あきら)めずに居る丈の余地は無い。彼は答えた。

 「私は戎瓦戎です。」
 蛇兵太は戎の肩をば両の手で捕らえ、其の顔を戎の顔に迫(せ)り附けて、篤(とく)と見た。此の時の蛇兵太の顔は全く恐ろしい相好(そうこう)《顔つき》である。戎は悶(も)がきもしない。けれど何だか恨めしそうな余韻を帯びた語調で、

 「堡塁の中で貴方に住所を告げたのは、嘘の番地では有りません。全く捕縛せられる覚悟です。斯(こ)うなれば既に捕縛せられたと同様ですから、神妙に引き立てられます。が唯一つお願いが御座います。」
 唯一つとは何の願いだろう。

 蛇兵太も毎(い)つもの蛇兵太とは違う。彼は一寸でさえも法を曲げると言うことは無く、鷹が小鳥を追う様な勢いで、何も彼も攫(つか)み潰して進むと言う質なのに、今は心に決し兼ねる所の有る様に、深い深い思案を顔色に現わして居る。

 彼れは問うた。
 「汝は何をして居るのだ。其の死骸は何者だ。」
 戎「ハイ私の願いは此の者の為です。此の者を父母の家まで送り届けて遣り度いと思います。其の後では何の様な御処分にも服しますが。何うか是れだけの御猶予を。」

 相手の願いに対しては、
 「其れは成らぬ。」
と言う外は答えたことの無い男なのに、今は許すとも許さぬとも言わずに、先ず手巾(ハンケチ)を取り出して、戎と同じく守安の顔を拭い、
 「之れは堡塁に居た奴だ。確か守安とか言って。」

 戎「今は御覧の通り怪我人です。」
 蛇兵太「死骸だろう。」
 戎「未だ死に切れては居ないのです。」
 蛇兵太「では堡塁から茲(ここ)まで汝が連れて来たのだな。」

 連れて来たと言えば成程連れて来たのには相違無い。けれど何と言う辛い連れて来方で有っただろう。誰でも先ず何して茲(ここ)まで切り抜けて来られたかと、其の点を怪しまなければ成らない。けれど蛇兵太は其の不審さえ起こらないほど、胸の中が様々の思いに満ちて居る。



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