巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百四十三 哀れ戎瓦戎 十一

 滞り無く婚礼は済んだ。新夫婦小雪守安の嬉しがりは言うに及ばない。誰一人喜ばない者は無い。
 新夫婦の居間から遠く離れない幾室かを打貫(ぬ)いて、立派な造作が施され、贅沢品を取り揃えてある。是は戎瓦戎の居間なんだ。

 何しろ新夫人の父同様の人であるが上に、七十万の大金を無事に保管して、正直に引き渡して呉れた恩人だから、桐野家では粗略にしない。婚礼の済むと共に此の家へ引き取り、新夫婦と同じ庭を眺め、同じ様に主人顔して、同じ様に睦まじく暮らす筈に成って居る。実に戎瓦戎に取って、何不足無い境遇と言わなければ成らない。

 戎は幾十年の艱難辛苦が茲(ここ)に尽きて、初めて円満な境遇に出られたと言う者だ。イヤ未だ出られはしないが、愈々(いよいよ)出られる時になったと言う者だ。

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 長々の此の物語は、愈々茲に終局した。是で目出度し、目出度しとした方が好い。若し後の事を話すのは、話す方も辛い。聞く人も情け無いと言うかも知れない。けれど之だけでは、仏が有って魂の無い様な者だ。辛くとも話さなければ成らない。聞いて貰わなければ成らに。但し、せめては余談の積りにでもして置こうよ。

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 儀式が済んで一同無事に、寺院から桐野家へ引き上げた。時はもう日の暮れで、是から愈々祝宴と言う意を以て、盛餐が開かれるのだ。但し大勢の珍客を招くのでは無い。新夫婦が大達者で、戎と桐野老人とが主席の客だ。外に此の家筋と離れられない縁類や朋友筋が幾等かある。愈々着席と言う時になると、首席の客の一椅子が空である。
 花嫁の父君が居らぬ。何した事と糺(ただ)して見ると、手先の怪我が痛むから失礼すると、玄関の者に言い置いて帰ったと言う事だ。

 慶び事の場合に、定めの客が一人でも欠けても余り好い者では無い。況(ま)して花嫁の父君だ。けれど手先の痛みは数日前から訴えて居たのだから、今更ら怪しむ所も無いと言って、其の代わり桐野老人が、喜びも談話も笑いも、二人分引き受けて勤めると言って、先ず盛餐も目出度く終わった。後はお定まりの事だから記すには及ばない。

 けれど戎瓦戎は何うしたのだろう。彼は全く手先の怪我が痛むと称して、アミー街の家に帰ったのだ。彼は新夫婦の、溢れる許かりの嬉しがりを見るのに耐えられなかったのだ。
 其の外に色々の事情がある。考えて見なけれ成らない事柄がある。一口に言えば、腹の中が乱麻の様に紊(乱)れて居るのだ。皮相(うわべ)の落ち着いた状(様)には似ない。

 彼の家にはもう番人と唯二人である。彼は番人に口をも利かず、其のまま二階に登って灯を点(とも)した。是までは我慢して居たが、是れで自分の務めが終わったと思うと、一時に悲しさが込み上げて長椅子に身を投げた。そうして泣いた。
 部屋の一方には、彼が兼ねて離さずに持ち廻って居る、鞄(かばん)がある。やがて彼は涙を鎮めて起直り、灯火(ともしび)の下に、其の鞄(カバン)を開いた。中に在るのは小さい女の子の着物である。

 此れは是れ、彼が曾て小雪を迎えにモントフアーメールへ持って行った品なんだ。言わば小雪の生きながらの片身なんだ。
 其の時から今までの、憂さや苦労は果たして誰の為で有った。アア小雪、小雪、誰に遣ろうとして小雪を美しく育て上げた。此の様に絶望して泣くが為では無かった。

 今日の小雪と守安との嬉しさに輝くほどの有様がまだ戎の目の前に在る。アア是れで先ず小雪の身は定まった。夫婦とも後々まで幸福であろう。此の幸福は誰が作った。総て此の身が作ったのだ。其れも一通りの作り方か。之が為に我が血を涸(枯)らし、之が為に我が命を絞ったのだ。幸福の元手たる資産までも此の身の力に成って居る。そうして此の身は、アア此の身は世の中の唯の独り者と為って了(しま)った。

 此の後を何う暮らそう。何を目当てにし、何を張り合いにする。残るのは唯一枚の此の着物のみだ。彼は恨めしそうに其れを見詰めたが、又懐かしそうに其れを取り上げて、自分の顔を其れに埋めた。彼は又泣いて居る。伏し俯向いて居る。何の様に彼は顔を上げて来るだろう。時のみは空しく経って、彼は顔を上げない。死んだのか、死んだ様だ。イヤ死にはしない。良(やや)あって決然と跳ね起きた。

 「此の様にしては居られない。」
と彼は叫び、やがて部屋中を見廻して、彼(あ)の片身の着物を元に納め、其の身は寝台の上に横になった。
 横になったと言って眠られる訳で無い。彼の心には、又一つの疑問が出た。彼は仰向けに唯天井を睨み詰めて、自分の心を苦しめて居る。

 「明日からは何うしよう。」
 新夫婦の請うが儘(まま)に桐野家へ引き移るのは易い事。其れが恐らく此の身に取り一番無事な道なんだろう。けれど此の身は何者。あの様な貴族の中に、隠居同様の身と為って、果たして其れが無事だろうか。

 若しも、若しも、何かの事から、此の身の素性が分かったなら何とする。前科者、脱牢人、今も未だ終身刑の宣告に服し終わらずに逃げて居るのだ。蛇兵太は死んでも警察は死なない。若し露見して捕らわれれば、新夫婦、取分けて新婦の方は何うなるだろう。

 此の不安心な境涯も、唯だ小雪を育てる義務の為に出た事だ。小雪さえ無かったなら、寧ろ安楽に牢の中に余命を送ったのだ。今は其の様な事は言っても仕方が無い。差し当たり何うすれば好いのだろう。

 何が何でも桐野家に住むことは出来ない。と言って、他の所に住で居たとて、露見の恐れは同じ事。其の時に新夫新婦の間に、大いなる禍いの落ちるのも同じ事だ。其れを知りつつ無言(だま)って居ては居られない。此の身の唯一つ歩む可き道は、切(せ)めて小雪の所天(おっと)守安に向かい、此の身の素性を打ち明けて置くに在る。先ず其れを打ち明けて、其の後にこそ後の思案はある。

 彼は夜明け頃に至って、漸くに思案が定まった。曾て裁判所へ自首して出た時よりも、もっと辛い想いだけれど、仕方が無い。
 終に彼は此の決心を持って守安の許に行った。



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