巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou144

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳  

   百四十四 哀れ戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん) 十二

 戎は守安の家の閾(敷居)を跨いだ時までも、未だ心が揺らいで居た。無理も無い。自分の恐ろしい素性を打ち明けるのだから。
 是を打ち明ければ何の様な事になろう。今まで受けた多少の尊敬も消えるのだ。賎(いや)しまれ爪弾きせられ事と成らないとも限らない。実に彼は、辛い辛い務めを果たそうとして居るのだ。首切り台に登るのと何方(どっち)が辛い。

 ズッと座敷に通ることは出来るけれど、わざと応接の間に入り、取次を頼んで守安に面会を求めた。何故の他人行儀と守安は幾分か怪しんだが、併し婚礼の翌く朝だから、彼の心は唯だ嬉しさに満ちて居る。彼は応接の間に来て、戎瓦戎の顔を見るやいなや打叫んだ。
 「阿父(おとっ)さん」
と。

 今まで戎と守安との間に何だか隔てが有った。けれど今は、
 「阿父さん」
と言う言葉が自然に出る様に成った。
 「昨夜貴方は、手先のお痛みとやらで、晩餐の席にお列なり成さらず、物足らない心地が致しましたよ。けれど今日は此のまま此の家へ引っ越して下さるでしょう。私も是からは熱心に弁護士の事務を取り、裁判所へも出ますから、其の留守には何うか貴方が小雪を連れ、今までの通りに公園など散歩させてお遣り下さい。」

 これ以上の打ち解けた言葉は無い。こう言われると戎は益々口が開きにくくなる。併し今は言わなければ、終には言い損ずると思い、必死の勇気を絞って、
 「イヤ其の様な事は出来ません。私は其の実、法律の罪人です。前科者です。」
 余り飛び離れた言葉だから、一度だけでは守安の心に入らない。

 「エ、何と仰(おっしゃ)りました。」
 こう問い返されると又言いにくい。此の時に至って戎は寧(いっ)そ言わずに、何とか言繕ろい度い様に心が動いた。けれどはっきりと、
 「私は人様と一様に交わられる身分では無いのです。人の物を盗んだ為、懲役に行き。」
 守安「エ、」
 戎「お驚き為さるのは御尤もです。十九年の間牢に居ました。」
 守安「貴方がですか。」

 戎「ハイ私がです。其れ丈では有りません。第二犯には終身懲役に処せられました。正直に言えば今も服役して居る筈ですが、脱牢して今は此の通り法律の目を潜って居ます。私の手を御覧なさい、昨日まで怪我だと言いましたけれど、怪我も何もして居ません。此の通り無傷です。私は手続書に署名して、姓名詐称の罪を侵すことを避けたのです。貴方と小雪との婚姻が無効になることを恐れました。」

 非常に確実に言い切る言葉に、偽りなどは有り得ないのだ。
 守安は余程信じまいとして必死に自ら悶(も)がいた。併し事実を信じないことは出来ない。彼の顔は赤くなり又青くなった。
 彼は止むを得ず信じた。信ずると同時に自分の身の破滅する時が来た様に感じた。昨夜婚礼した自分の妻の父、イヤ真の父で無いにしても、父同様の身であって、同じ星部の一類が、終身刑の脱獄囚とは、何うして此の身が破滅せずに居られよう。

 彼は深い陥(おと)し穴にでも落とされた様に感じた。婚礼の済むまで無言で居て、愈々婚礼の終った翌朝、直ぐに打ち明けて来る様では、此の後に何の様な難題が潜んで居るかも知れないと、彼の心には有りと在らゆる恐ろしい想像が、分秒時の間に取り留めも無く湧いて出た。
 彼は又叫んだ。

 「一切の事を聞かせて下さい。サア一切を。一切の事を」
 戎は静かに、而も熱心に、
 「申します。私は裁判所に出てさえ、宣誓する資格の無い人間ですけれど、事実で無いコトは申しません。第一私は貴方の妻小雪と何の血続きでも無いのです。是だけはご安心を願います。私は縁も由かりも無いフエプロルの農夫です。木を樵(こ)るのを業として居ました。
 名は戎瓦戎と言うのです。」

 戎瓦戎とは聞いた事の無い名では無い。守安の耳には、何だか悪人の符牒の様に聞こえた。
 「私の姓は星部では無いのです。」
 守安「誰が其れを証します。証拠は、証拠は、」
 戎「私が自分で照明するのです。少しもお疑い成さる所は有りません。」
 守安はジッと戎瓦戎の顔を見た。何と言う静けさだろう。悲しそうに又正直らしく、そうして泰然と構えて居る。嘘偽りの出る態度では無い。

 守安「貴方の言葉を信じます。」
 確かに彼は信じた。
 戎は言葉を継ぎ、
  「私は小雪の何でしょう。何でも有りません。今より僅か十年前には、世に小雪と言う者の有るさえ知らなかったのです。全くの他人です。成る程小雪を愛するのは事実です。私には子も有りません。小さい児を見れば我が児我が孫の様にも思うのです。愛するに不思議は有りますまい。小雪は父も無く母も無く全くの孤児でした。私が保護しなければ、保護する人が無かったのです。それだからこそ親身の親子も及ばない程に睦まじくして来ました。けれど今日はもう、小雪は本田男爵夫人、私と別の道を歩むのです。

 今日からは、私も小雪に対して何の権利も無く、何事をして遣ることも出来ません。其れならば七十万のあの資産は。あれは委託です。何うして私が委託されたか、其れは言う必要が有りません。既に委託金の引き渡しは済み、其の上に此の通り本名身分をまで打ち明ければ、是で私の肩は抜けました。もう責任も無いのです。」

 言葉だけは分かって居るが理由は分からない。守安は三度叫んだ。
 「けれど何故、貴方は其の様な事を打ち明けるのです。誰も貴方の秘密を知らず、自分さえ言わなければ安全で済みます者を。」
 之も尤もな問いである。


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