巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百四十五 哀れ戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん) 十三

 「懲役(ちょうえき)」
 是は何と言う恐ろしい言葉だろう。何れほど尊敬せられて居る人でも、一旦、懲役に行った事があると分かっては、忽(たちま)ち人間で無い様に思われて了(し)まう。
 況(ま)して戎瓦戎の様に、十九年も牢に居たと言っては、誰が驚かずに居る者か。更に終身の刑を受け、脱牢して法律の目を潜って居ると言うに至っては、殆ど取り所が無い。

 守安が打ち驚くのは最もである。何故其の様な事を打ち明けるかと問い返すのは、猶更(なおさら)道理だ。
 「何故、何故」
と戎は守安の言葉を繰り返し。
 「ハイ、私は追い詰められて居るのです。密告されて居るのです。」
 守安「其れは誰に」

 戎「自分の良心にです。警官に追い詰められるのは、未だ逃道が有りますが、良心には逃げる道が有りません。自分で自分を逮捕して居るのです。」
と言いつつ自分の手で自分の襟を捕らえ、宛(あたか)も罪人を引き立てる様にして、
 「こうして捕らえた手は、振りもぎることも出来ますが、良心に捕らわっては、振り解くことが出来ません。

 守安さん、守安さん、無言(だま)って居れば私は此の家で岳父(しゅうと)と敬(うやま)われ、何不足なく老い先を送ることが出来るかも知れません。爾(そう)して貴方や小雪や桐野老人と共々に、或いは散歩に行った公園で、或いは見物に行った劇場で、忽ち警察官に見現(みあらわ)され、脱獄の囚人戎瓦戎だと捕まったら、貴方がたの名誉は何うなります。貴方がたは、甚(ひど)い奴だと私を恨まずに居られましょうか。其れを思うと、自分の身分を隠して居る訳には行きません。打ち明けずには居られません。」

 此の言葉に感心せずに居る事が誰に出来る。守安は脱獄の囚人と言う言葉に、怖気を震るうほどの悪感を抱いて居るけれど、戎の心には敬服し、立って来て手を差し延べた。是れは握手せんとの心にして、好意未だ失せて居ないの知らせて居る。けれど戎が其の手を握ろうとしない為め、守安は止むを得ず、戎の手を取って握った。戎の手は石の如く冷たい。守安は言った。

 「イヤ私の父が、多少其の筋に勢力ある友人を持って居ますから、貴方の為に特別赦免の運動を頼みましょう。」
 戎は執(と)られた手を離し、
 「イイエ、其れには及びません。其の筋の帳簿には、戎瓦戎は死んだ者と成って居て、もう追及はしないのです。それに私は其の筋の赦す赦さ無いより、我心の赦す赦さ無いのを恐れるのです。」

 此の様な立派な言葉は戎瓦戎にして初めて発する資格があるのだ。
 之に対して守安が何事をか言おうとする時、忽ち横手の戸が開いて、笑みに輝く小雪の顔が突き出た。
 「アレ、お二人で、又六つかしい政治談とやらをして居ますね。イイエ聞きましたよ。良心だとか何だとか、堅い言葉ばかり使って居ましたもの。政治の事に極まって居ますよ。先アその様な事は止めてーーーー」

 今入って来られては大変だと、守安は遮る様に、
 「ナニ少し込み入った事務上の相談で、直ぐに終わりますから。」
 小雪は何れ程の迷惑と察し得る筈が無い。
 「何だか私には御用が無い様ですけれど入りますよ。好いでしょう阿父さん。」
と言って、其のまま部屋に入った。守安にも戎にも其の姿は吹き入る春風の様に感ぜられた。けれど戎は一語も発することが出来ない。

 小雪「アレ阿父さん、何故物を仰らない。サア接吻して下さいな。」
と言って前額を出して戎の傍に寄ったが、忽ち一足下がり、
 「オオ阿父さん、顔色のお悪い事、未だ手先の怪我が痛みますか。」
 戎「怪我は直った」
 小雪「其れでは夜前眠れませんでしたか。」
 戎「良く眠った」
 小雪「では気分がお悪いの」
 戎「イイエ、」
 小雪「何処もお悪くないのなら私は叱りませんよ。サア接吻して下さい」

 真に親子にも優る程の至情が溢れて居る。戎は止む無く小雪の前額に唇を当てた。若し幽霊が接吻する者なら、此の時の戎の様だろう。戎の顔は死人の如くである。
 小雪「其れだけでは可けませんよ。サア笑みなさい。」
 戎は笑おうとする様に顔の筋を動かそうと勉めた。泣くよりも辛いとは此の事だろう。

 小雪「私も茲に居て好いでしょう。ねえ貴方」
と守安を顧みて椅子に座った。
 守安「イイエ、今少しで相談事が済むのだから」
と言いにくそうに言うと、
 「アレ大人の様な顔をして、阿父さんも何も言って下さらない。其の様に私を虐待すると祖父さんに言付けますよ。」
と言って立った。

 小雪の去ると共に、部屋の中が俄かに暗くなった様に感ぜられた。けれど小雪は直ぐに部屋の外から又戸を開き、
 「覚えてお出で成さい。私は立腹して居るのですよ」
と言い捨て、今度は本当に去った。暫くして守安は念の為に戸を開き、外に何者も居ないのを見届けて席に復(かえ)り、悲しさに耐えられない様に独語した。

 「アア可哀想に、小雪に此の事を知らせたら、何の様にーーー」
 此の声に戎は身を刺された様に飛び立ち、
 「オオお待ち下さい。お待ち下さい。其れ迄は私も考えが届かなかった。貴方に打ち明ける事は出来ても、小雪に聞かせる事ばかりは、アア懲役人、脱獄囚、と小雪が知ったなら、私は何としましょう。情け無い、情け無い。」
と言って彼は両手を顔に当てて伏し俯向いた。彼は声を呑んで泣いて居る。彼は絶望の極に達した。
 「最う死ぬ外は有りません。」
との一語が終に歔欷(きょき)《咽び泣く》の声と共に洩れた。

 守安は傷(いた)わって
 「イヤ、其の事はご安心なさい。決して小雪の耳には入れませんから。」
 言うは幾分の親切である。併しこの様にして、段々時の経つに従い、懲役人と言い、脱獄囚と言う言葉が愈々深く守安の心に浸み込み、今までの尊敬す可き白翁や星部老人と別人の様に見えて来る。人の心はこうした者だ。何して此の恐るべき罪の人が、今まで紳士の様に見えて居たのだろう。罪の人と言う其の罪の下に、罪の無い人も及ばない程の清さを隠して居るけれど、其れは見えない。唯罪と言い、獄と言う言葉が何も彼も蔽うて居る。

 守安は言った。
 「此の後の貴方の身の振り方などもーーー」
 戎は漸くに心を鎮め、
 「イエ、御心配なさらぬ様に願います。此の上唯だ一事伺いば済むのです。」
と言い、殆ど声を為さない声で、

 「貴方が小雪の主人ゆえ伺いますが、もう私は小雪に逢いに来ないのが好いでしょうか。」
 守安は冷淡に、
 「ハイ、其れが良いでしょう。」
と答えた。
 戎「では再び小雪の顔を見ません。」
と呟(つぶや)く様に言い、立って戸口の方に去った。



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