aamujyou145
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
since 2017.8.24
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百四十五 哀れ戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん) 十三
「懲役(ちょうえき)」
是は何と言う恐ろしい言葉だろう。何れほど尊敬せられて居る人でも、一旦、懲役に行った事があると分かっては、忽(たちま)ち人間で無い様に思われて了(し)まう。
況(ま)して戎瓦戎の様に、十九年も牢に居たと言っては、誰が驚かずに居る者か。更に終身の刑を受け、脱牢して法律の目を潜って居ると言うに至っては、殆ど取り所が無い。
守安が打ち驚くのは最もである。何故其の様な事を打ち明けるかと問い返すのは、猶更(なおさら)道理だ。
「何故、何故」
と戎は守安の言葉を繰り返し。
「ハイ、私は追い詰められて居るのです。密告されて居るのです。」
守安「其れは誰に」
戎「自分の良心にです。警官に追い詰められるのは、未だ逃道が有りますが、良心には逃げる道が有りません。自分で自分を逮捕して居るのです。」
と言いつつ自分の手で自分の襟を捕らえ、宛(あたか)も罪人を引き立てる様にして、
「こうして捕らえた手は、振りもぎることも出来ますが、良心に捕らわっては、振り解くことが出来ません。
守安さん、守安さん、無言(だま)って居れば私は此の家で岳父(しゅうと)と敬(うやま)われ、何不足なく老い先を送ることが出来るかも知れません。爾(そう)して貴方や小雪や桐野老人と共々に、或いは散歩に行った公園で、或いは見物に行った劇場で、忽ち警察官に見現(みあらわ)され、脱獄の囚人戎瓦戎だと捕まったら、貴方がたの名誉は何うなります。貴方がたは、甚(ひど)い奴だと私を恨まずに居られましょうか。其れを思うと、自分の身分を隠して居る訳には行きません。打ち明けずには居られません。」
此の言葉に感心せずに居る事が誰に出来る。守安は脱獄の囚人と言う言葉に、怖気を震るうほどの悪感を抱いて居るけれど、戎の心には敬服し、立って来て手を差し延べた。是れは握手せんとの心にして、好意未だ失せて居ないの知らせて居る。けれど戎が其の手を握ろうとしない為め、守安は止むを得ず、戎の手を取って握った。戎の手は石の如く冷たい。守安は言った。
「イヤ私の父が、多少其の筋に勢力ある友人を持って居ますから、貴方の為に特別赦免の運動を頼みましょう。」
戎は執(と)られた手を離し、
「イイエ、其れには及びません。其の筋の帳簿には、戎瓦戎は死んだ者と成って居て、もう追及はしないのです。それに私は其の筋の赦す赦さ無いより、我心の赦す赦さ無いのを恐れるのです。」
此の様な立派な言葉は戎瓦戎にして初めて発する資格があるのだ。
之に対して守安が何事をか言おうとする時、忽ち横手の戸が開いて、笑みに輝く小雪の顔が突き出た。
「アレ、お二人で、又六つかしい政治談とやらをして居ますね。イイエ聞きましたよ。良心だとか何だとか、堅い言葉ばかり使って居ましたもの。政治の事に極まって居ますよ。先アその様な事は止めてーーーー」
今入って来られては大変だと、守安は遮る様に、
「ナニ少し込み入った事務上の相談で、直ぐに終わりますから。」
小雪は何れ程の迷惑と察し得る筈が無い。
「何だか私には御用が無い様ですけれど入りますよ。好いでしょう阿父さん。」
と言って、其のまま部屋に入った。守安にも戎にも其の姿は吹き入る春風の様に感ぜられた。けれど戎は一語も発することが出来ない。
小雪「アレ阿父さん、何故物を仰らない。サア接吻して下さいな。」
と言って前額を出して戎の傍に寄ったが、忽ち一足下がり、
「オオ阿父さん、顔色のお悪い事、未だ手先の怪我が痛みますか。」
戎「怪我は直った」
小雪「其れでは夜前眠れませんでしたか。」
戎「良く眠った」
小雪「では気分がお悪いの」
戎「イイエ、」
小雪「何処もお悪くないのなら私は叱りませんよ。サア接吻して下さい」
真に親子にも優る程の至情が溢れて居る。戎は止む無く小雪の前額に唇を当てた。若し幽霊が接吻する者なら、此の時の戎の様だろう。戎の顔は死人の如くである。
小雪「其れだけでは可けませんよ。サア笑みなさい。」
戎は笑おうとする様に顔の筋を動かそうと勉めた。泣くよりも辛いとは此の事だろう。
小雪「私も茲に居て好いでしょう。ねえ貴方」
と守安を顧みて椅子に座った。
守安「イイエ、今少しで相談事が済むのだから」
と言いにくそうに言うと、
「アレ大人の様な顔をして、阿父さんも何も言って下さらない。其の様に私を虐待すると祖父さんに言付けますよ。」
と言って立った。
小雪の去ると共に、部屋の中が俄かに暗くなった様に感ぜられた。けれど小雪は直ぐに部屋の外から又戸を開き、
「覚えてお出で成さい。私は立腹して居るのですよ」
と言い捨て、今度は本当に去った。暫くして守安は念の為に戸を開き、外に何者も居ないのを見届けて席に復(かえ)り、悲しさに耐えられない様に独語した。
「アア可哀想に、小雪に此の事を知らせたら、何の様にーーー」
此の声に戎は身を刺された様に飛び立ち、
「オオお待ち下さい。お待ち下さい。其れ迄は私も考えが届かなかった。貴方に打ち明ける事は出来ても、小雪に聞かせる事ばかりは、アア懲役人、脱獄囚、と小雪が知ったなら、私は何としましょう。情け無い、情け無い。」
と言って彼は両手を顔に当てて伏し俯向いた。彼は声を呑んで泣いて居る。彼は絶望の極に達した。
「最う死ぬ外は有りません。」
との一語が終に歔欷(きょき)《咽び泣く》の声と共に洩れた。
守安は傷(いた)わって
「イヤ、其の事はご安心なさい。決して小雪の耳には入れませんから。」
言うは幾分の親切である。併しこの様にして、段々時の経つに従い、懲役人と言い、脱獄囚と言う言葉が愈々深く守安の心に浸み込み、今までの尊敬す可き白翁や星部老人と別人の様に見えて来る。人の心はこうした者だ。何して此の恐るべき罪の人が、今まで紳士の様に見えて居たのだろう。罪の人と言う其の罪の下に、罪の無い人も及ばない程の清さを隠して居るけれど、其れは見えない。唯罪と言い、獄と言う言葉が何も彼も蔽うて居る。
守安は言った。
「此の後の貴方の身の振り方などもーーー」
戎は漸くに心を鎮め、
「イエ、御心配なさらぬ様に願います。此の上唯だ一事伺いば済むのです。」
と言い、殆ど声を為さない声で、
「貴方が小雪の主人ゆえ伺いますが、もう私は小雪に逢いに来ないのが好いでしょうか。」
守安は冷淡に、
「ハイ、其れが良いでしょう。」
と答えた。
戎「では再び小雪の顔を見ません。」
と呟(つぶや)く様に言い、立って戸口の方に去った。
a:372 t:1 y:0