巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou146

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

since 2017.8.24


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   
   百四十六 哀れ戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん) 十四

 小雪に逢うことさえ出来無いと為って、戎は此の世の楽しみが何処に在る。
 彼は、「再び小雪の顔を見ません」と守安に言い、立って戸口まで出たけれど、余りの辛さに去る事が出来なかった。戸に手を掛けて暫(しばら)く考え、蹌踉(よろめ)く様に再び守安の前に帰った。

 「アア是ばかりは私に出来ません。若しも小雪と逢見ることを止める程なら、何も私は此の様な白状はせず、黙って此の国を去る所です。もう老い先の長くも無い此の身で、我子の様に育て上げた小雪に分かれ、何処に、何人に慰められることが出来ましょう。何うか此の後とも、小雪の幸福を見て居たいと思えばこそ、辛い思いで身の秘密をも打ち明けたのです。守安さん、守安さん、何うか時々小雪に逢いに来ること丈はお許し下さい。お許し下さる訳には行かないでしょうか。」

 是が全く戎の真情である。彼は小雪を幸福にしたいのみの為に、何の様な苦労をした。自分の物と言わずに贈りもした。総て此の様な心尽くしは、人に知られず、唯だ懲役人と言い、脱獄囚と言う一語の為に小雪の幸福な状(様)をさえ見ることが出来ないとは、彼の我慢できる所では無い。彼は殆ど我を忘れた様子で、守安の前に立った。

 何で此の請いを拒むことが出来よう。けれど守安は猶も冷淡に、
 「ハイ何うか朝でも晩でもお出で下さい。貴方が不意に見えないことに成れば、小雪も怪しみます。」
と許した。戎の為に許すのでは無く、小雪の為に許したのだ。けれど戎は満足した。小雪に逢うことさえ出来れば、誰の為でも同じ事だ。

 彼は有難くて仕方が無いという風に礼を述べて分かれ去ったが、此の後は毎日小雪に逢いに来た。けれど何の様な様子で逢いに来たのだろう。
 戎の去った後で、守安は深く深く考えた。果たして戎瓦戎は何者だろう。何の様な事情で懲役に成ったのやら。

 イヤ盗みの為と言った。再犯の為と言った。初犯の罰が十九年、何と言う重いのだろう。何しろ余程質(たち)の悪い盗み方で有ったに違い無い。再犯が終身刑、聞いてさえ恐ろしい。其れににしても小雪が、この様にこの様な者に育てられて、汚れに染まらなかっただろうか。是は疑うに及ばぬ。少しも汚れに染まら無いことは、良く分って居る。

 良家の深窓に育ったとしても、小雪の様に無垢に成長することは出来無い。多分は是などが人間社会の奇跡の一つだろう。小雪の身に特別に神の加護が有ったのだろうと、守安は此の様に思った。其れに小雪が戎と何の血筋をも引かず、十年前には戎自ら此の世に小雪と言う者の有るのをさえ知らなかったと言った。小雪の身には何うあっても戎の汚れが感染して居ない。

 こう思い定めて漸(ようや)くに安心はしたものの、未だ合点の行かない所が沢山にある。盗みもする程の人が、正直に七十万の委託金を引き渡したのは何の為だろう。今では後悔して正直に成って居るのかも知れない。そうだ、吾れに其の素性を打ち明けるなど、意外に正直な所も有る。
 先ず之だけは感心だが、又一方を考えると、此の感心が消えて了(しま)う様な所も有る。

 今まではシヨプリーの堡塁に居た老人を、別の人かと思ったが、彼が警官蛇兵太を引き立てて自ら銃殺した所を見ると、或いは蛇兵太に旧悪を知られて居る為では無かっただろうか。泥坊をする人間が戦争に加わる筈は無い。彼は何うかして蛇兵太があの堡塁に捕らわれて居ることを探知し、其れを射殺したいのみの為に堡塁へ来たのかも知れぬ。

 又其の以前、彼が手鳴田の二階に捕らわれ、大勢の悪人を相手として、手に余るほど大胆に振舞ったが如き、又蛇兵太の来たるに會い、二階の窓から縄梯子を伝って逃げ去ったが如き、成るほど泥坊ならば頭分の手際である。是を思って守安はゾッとした。

 何にしても懲役に行く様な人の為(す)る事は正直な人間が考えても良く分からない。モット事実を取り調べて見たいけれど、其の手掛かりが無いと、この様に思って止んだ。
 其れは扨て置き、戎は翌日の日暮れに小雪に逢いに行った。玄関番は言った。
 「主人の申し附けです。貴方がお出でになったら、奥へお通り成さるか、下の間でお宜しいか伺えと。」

 殆ど奥の間へ通て呉れるなと言うに等しいのだ。けれど戎は面持ちを損ぜずに、
 「下の間で宜しい」
と答えた。直ぐに其の「下の間」と言う所へ案内されたが、茲は曾て戎が死骸同様の守安を送り届けて、家人に引き渡した部屋である。少しの造作を施して、暖炉にも火を焚き、二脚の椅子を並べて有る所を見ると、戎を茲へ通すことに決めて既に用意をして有るのだ。

 そうして、
 「奥へ通るか下の間で好いか」
と聞かせるのは、愈々仕向け方が分かって居る。もう戎は此の家へ来ても、此の部屋より奥へは通されない事に成ったのだ。玄関から追い払われるのに比して余り違った所は無い。戎は此の様な事を考えないでは無いけれど、其のうちに小雪が茲(ここ)へ、嬉しそうに飛んで来たから、直ぐに心の雲は晴れた。
 戎は部屋の良否(よしあし)などには構わない。唯小雪に逢われれば好いのだ。



次(百四十七)へ

a:14 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花