巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百四十七 哀れ戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん) 十五

 入って来た小雪は、少し不満の様子で部屋を見廻し、
 「何だって貴方は此の様な部屋で私と逢おうと仰(おっしゃ)るのです。今守安に聞けば、奥へ通るより此の部屋が好いと言った相ですが。」
 成るほど言った。此の部屋が好いと言ったに相違無い。けれど言わなければ成らない様に仕向けられたのだ。もう此の家の奥座敷などへ通られる身分で無いのだ。小雪は促す様に、

 「サア阿父さん、奥座敷へ行きましょうよ。」
 戎「イイヤ此の部屋の方が好い。」
 小雪「好い事が有りますものか。私に逢うのに家中の一番見苦しい室を選ぶとは、貴方は何(どう)か成さったのですか。」
 戎「許してお呉れ小雪、私は此の様な癖だから。」

 癖と言う事で小雪の怪しむのを消して了った。
 勿論小雪は喜んで様々の話しを為し、戎も喜んで可也に長座して帰ったが、此の後は殆ど毎日の様に逢った。逢って喜ばしい小雪の言葉を聞く外に、戎には此の世の楽しみが無いのだ。イヤ此の世の用事が無いのだ。其のうちに追々と小雪も世帯慣れて来た様だ。取分けて戎の気付いたのは、小雪が非常に倹約に暮らして居る有様である。

 七十萬と言う世にそうは類の無い大婚資を持って嫁入った夫人が、此の倹約は何故だろうと戎は大いに怪しんだ。婚礼後間も無く買い入れる事に成って居た馬車も止めた。芝居芝居と言って居た其の芝居へも、行った様子が無い。全体言えば常に桟敷の一桝ぐらいは買い切って置く可(べ)き身分なんだ。其れに使って居る女中なども減らせる丈減らした。合点が行かないけれど、戎は気の附いた様な顔さえしなかった。

 併し小雪が戎を懐かしがる様だけは、日に日に深さを増し、少し刻限が遅くても、
 「何故今日は遅かったのです。」
と問うほど故、外の事は何も気に留めるに及ばないと思って居たが、其れでも気に留めずに居られないのは、此の家の仕向け方が次第に冷淡になって来る。尤も初めから厚く待遇(もてな)されはしないけれど、或る日毎(いつ)もの部屋に入って見ると、暖炉の火が焚いて無い。焚く可き炭も置いて無い。是れ或いは此の家へもう来るなとの謎では無いだろうか。

 小雪は入って来て驚いた。
 「此の寒いのに暖炉(ストーブ)が無いとは。」
 戎は答えた。
 「イイエ、昨日私が小使いに断って置いたのだ。逆上(のぼせ)るから暖炉は止して呉れ。」
と。そうして其の次に行った時には、茶さえも出さ無い。是等は決して倹約の為では無い。戎は唯小雪の為に心配した。
 「若しや居にくい様な事は無からうか。」
と。幸いに此の心配は無益であった。小雪は益々守安との仲も良く、舅姑にも愛せられ、此の家の主婦人らしく成って来る。
 併し或時、怪しげに戎に問うた。

 「ねえ、阿父さん、一年三千法(フラン)の家計(くらし)とは随分六(難)かしい者でしょうか。」
 戎「三千法(フラン)なら先ず中人の暮らし方だから、贅沢さえしなければ、楽に暮らして行かれるが。併し何故其の様な事を問う。」
 小雪「此の家の祖父(おじい)さんから守安へ、家計(くら)しの料として下さる手当が月々三千法なんです。」

 戎「其れは私も知っているよ。婚礼前よりの約束で、婚礼証書に書き入れて有るのだもの。」
 小雪「守安は何うしても三千法で足りる様に暮らせと言います。」
 戎は益々怪しんだ。
 「此の様な貴族として、三千法で暮らすとは其れは無理だ。和女(そなた)の収入だけでも一年に二万七千法は有るのに。」
 小雪「其の収入へは手を附けない事にするのです。」

 戎は忽ち顔色を変えた。
 もう何も彼も分かった。守安は小雪の資産七十萬法を不正の金と疑って居るのだ。泥坊の盗み集めた金の様に思い、其れで手を附け無い事にするのだ。抑々(そもそ)も彼の金は戎が正直な働きで、血を絞って得、慈善を行って余し得た者だのに、其れを其の様に疑われるとは、余りと言えば情け無い。

 戎は此の日、毎(いつ)もほどは話もせず、早く切り上げて帰ったが、家に帰るともう病人だ。絶望に起き上がる気力も無い。
  一日又二日と小雪は徒に待ったが、父の姿が見えないので、厳しい迎への手紙を送った。戎は本当の病気だけれど、押して逢いに行き又一月ほど通ったが、仕向け方の冷淡は益々加わる許(ばか)りで、果ては彼の部屋の一脚の椅子さへ無くなった。

 入って来た小雪が非常に驚くのを戎は又制し、
 「ナニ私が片付けさせたのだよ。」
と言った。けれど自らもう此の家に来る心が無くなった。全く挫けて了(しま)ったのだ。
 彼は吾が宿に帰ってから唯だ、
 「あれは不正の金では無い。不正の金では無い。」
と口走るのみで有ったが、床に就いて起き上がる力が無い。
 家番の妻が、幾日も幾日も、戎の食事が皿の儘(まま)、手つかずに下がるので、怪しんで戎を尋ね、

 「貴方の食事が勧まないなら、何なりとお口に適(かな)う物を言って下さい。」
と尋ねた。戎は唯だ、
 「水を、水を」
と答えた。アー彼は一種の熱病に罹った。無論に精神の痛みから出た病なんだ。家番の妻は又問うた。
 「お医者を迎えて来ましょうか。」

 戎「イイエ、何処も悪くは無いのだから其れには及びません。」
 後で彼は起き上がった。今まで幾人前の力を持った彼れの身が、今は独りで歩むにさえも足りない。一歩這っては喘(あえ)ぎ、二歩行きては息を継ぎ、漸くに革包(カバン)の在る所まで行き、其れを開いて取り出したのは、彼の小雪の小さい時の着物である。

 彼は己が顔に是を当てて泣き、暫くにして又聖僧ミリエルの燭台を取り出した。そうして真昼では有るけれども、之に蝋燭(ろうそく)を立てて火を点(とも)した。彼は此の燭台の火に照らされて此の世を去る積りである。

 彼れにはもう此の燭台の外に心の慰籍(いしゃ)《慰め労わること》が一つも無いのだ。小雪も人の物と為った。朋友も無い。家も無い。金も無い。寿命も無い。
 何うして天は戎一人を此の様な目に合わすのだろう。



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