巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百四十八  最後 一

 聖僧ミリエルに与えられた燭台より外には、戎の身に友は無い。此の燭台に照らされて死ぬのが、切めてもの慰籍(いしゃ)《慰め労わる事》である。
 彼は更に、喘(あえ)ぎ喘ぎ職工の服を取り出して着けた。彼の生涯は全く労働であった。彼の身を救ったのも労働、慰藉の無い彼の心に、多少の慰藉を与えたのも労働であった。彼は労働者として、死ぬ積りと見える。

 けれど彼は死に切れない事が有る。彼れは叫んだ。
 「エエ、残念だ。残念だ。あの金を不正の金だなどと、何うか此の疑い丈は解いて置きたい。」
 そうだ此の疑いだけは解いて死ななければ、後々まで小雪の身が浮かぶことが出来ない。 彼は頓(やが)て紙墨筆を取り出した。
 心ばかりは早やる様だけれど、手が動かない。もう手紙など書くほどの力は、彼の身に残って居ない。一字書いては休み、二字書いては消し、将(まさ)に死のうとする時に、僅かに残る気力を以て、彼の認(したた)めるのは何事だろう。樹の脂(やに)を以て作る黒い飾り玉の製法である。

 彼が彼の大金を作ったのも全く黒い飾り玉の製造に在ったのだ。今は書かなくても、世間の飾物師が、其の製法を知って居るけれど、彼は其れを書いて、更に自分がモントリウルで何の様に働いたかと書き残す積りである。
 自分一人の為ならば何も弁解などし度(た)く無い。泥坊と思われて死のうが、不正と認められて果てようが、自分の良心が知って居る上は、何も他人の思惑などには構わない。けれど唯だ小雪の為に冤(えん)を雪(すす)いで置かなければ成らない。

 彼は未だ、思う半分も四半分も書かないうちに力が尽きた。もう手が動かなくなった。眼が靄(もや)に包まれた。全く命の尽きる時が来たのだ。
 吁(ああ)、生存中にあの様に苦労した戎瓦戎は、死ぬのにもこの様に煩悶するのだ。 
 彼の生涯には一点の安楽と言う者が無い。
 彼は全く自分が今死ぬことを知った。

 「アア小雪、小雪」
と彼は叫んだ。
 「もう此の世で、小雪を見る事が出来ない。俺は此の様にして死ぬのだ。」
と又叫んだ。そうして床の上に倒れた。
 この様にして戎は死ぬのに、小雪は何をして居る。守安は何をして居る。両人ともに単に知ら無いのだ。噫(ああ)、噫無情
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 夕餉を終わって守安が書斎に退こうとする折、下僕が一通の手紙を持って来た。
 「此の差し出し人が応接の間に待って居ます。」
と言って退いた。何気なく守安は封を切ると、曾(かつ)て嗅ぎ覚えの有る、安煙草の悪臭が鼻を撲(う)った。此の臭いは毎(いつ)でも守安をして彼の四国兼帯の人を思い出させるのだ。四国兼帯の人とは手鳴田である。

 多分は曾て見た様な無心状だろうと思い、読み下すと果たしてそうだ。署名は、
 「不幸にして学士会員に成れなかった零落の学者鳴田」
とある。手鳴田の手の字が抜けて居る。イヤ故(わざ)と抜かしてある。そうして文句は、
 「大切な秘密をお知らせ申す。」
と言って、口留金を強請る(ゆす)る奴族(やつら)の常套(ありふ)れの手段なんだ。

 揉み捨てて一顧をも与えぬ筈であるけれど、唯だ相手が手鳴田と知る丈に、彼れは自分の部屋へ行き。抽斗(ひきだし)の中から、数多の紙幣を取り出して衣嚢(かくし)に入れ、そうして応接の間へ出掛けて行った。

 今まで守安が、手鳴田に逢って父の受けた恩義を返したいと思い、何れほど彼の行方を尋ねたかは、読者の知る所である。其の相手が向こうから尋ねて来るとは、父の遺言を果たす可き時が来たと言う者だろう。

 応接の間に入って見ると、待って居るのは手鳴田自身では無い。けれど余程零落した学者の果かとも思われる様な真面目な扮装(いでたち)で、其れに色の濃い眼鏡で其の眼を隠して居る。此の眼鏡が怪しいのだ。扨(さ)てはと守安は見て取って、
 「用事は何です。」
と愛想なく問うた。

 眼鏡の人は、迂(まわり)遠く米国の地理を説き初め、バナネの付近に、黄金の転がって居る處が有って、自分が妻と娘の三人で移住するに決したけれど、旅費が無い。其の旅費を恵んで呉れと言うのが、其の要領だ。そうして其の要求の理由と言うのは、

 「ナニ是は私の為で無く、却(かえ)って貴方のお為です。エイ、私の様な貴方の名誉に障(さわ)ることを知って居る人間が、此の国に居ましては余り貴方が枕を高くして眠ると言う事も出来ませんから、少し許かりの旅費で、米国の様な遠い国へ追い遣った方がご安心ですぜ。」
と妙に嘲笑(あざわら)いを帯びて言う所は、中々零落(おちぶ)れた学者では無い。本職のユスリ人だ。

 更に彼れは語を継いで、
 「其れも大した金では無し、親子三人の旅費が、只った二万法(フラン)です。」
 二万法を「タッた」だと言って居る。
 守安は簡単に
 「聞いて居ます。」
と言った。

 耳を傾けて居るから事実を延べよとの催促である。何だか冷淡過ぎて、ユスる方でも張り合いが薄い様だ。けれど零落学者は大いに言葉に勿体を附け、
 「名誉高き御当家の中に、警察から目指されて居る極めて悪い人間が紛れ込んで居るのです。」
と言って、守安の顔色を見た。守安は単に、
 「其れから」
と言った。
 「其の者の本名は、誰でも聞けば驚かずに居られません。泥坊社会で有名な戎瓦戎です。」
 守安「ハイ知って居ます。」
 知って居ますと言われるほど張り合いの無い者は無い。
 学者「そうしてその奴は脱獄囚ですよ。」
 守安「ハイ知って居ます。」



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