巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou15

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.15


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   噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

      十五 蛇兵太(じゃびょうた)

 真に斑井父老(まだらいふろう)の様な善人は又と得難い。
 彼は幾等富んでも、自分の暮らし方を変えない。贅沢と言う事が一つも無い。少し身体の暇な時には読書する。それが為だろう、初め此の土地へ来た頃から見ると人柄もズッと上品に成った。初めは職人かと思われたが、今は立派な紳士である。

 彼は銃を肩にして出る事がある。けれど罪のない生き物を決して殺さない。何うかして偶(たま)に射撃する時は、その狙いの正確なことは恐るべき程だ。

 彼は何時でも許多(あまた)の金銀貨をポケットに入れて家を出るが、帰る時は全く空に成って居る。途中で貧民や子供に与えるのだ。時に依ると人の留守家に入り込んで、棚の上へ金貨を置いて立ち去る事も有る。

 又彼は若い時に田舎に住んだ事が有ると見え、農産物などについて、様々な知識を持って居る。機会さえ有れば誰にでも教えてやるが、その言葉に従って見ると、必ず意外な好結果が得られる。彼は腕力も強いらしくて、可也りの年だけれど、途中で行き悩んだ荷車などを押してやる時には、馬より強い。曾ては町の中で荒れ狂う牡牛(おうし)をば、角を持って押附け(おさえつ)けた事も有る。

 何しろ彼の評判は日に日に高い。或貴婦人などは、彼が何の様な寝室に寝ているのだろうと怪しみ、物好きにも、
 「拝見させて下さい。」
と言い込んだ。彼は直ぐにその婦人を二階に連れて行き、寝室の飾り附けを見せた。その婦人は意外な思いをした。狭い部屋に、古い寝台が一つ有るのみで、四方の壁は古新聞紙で貼って有る。此の上も無い質素な作りだ。

 唯だ一つ不似合いとも言うべきは、枕元の棚にある、二個一対の銀の燭台が立って居ることである。刻印で見ると全くの純銀だ。その上に多少の古色も着いて居る。
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 1822年、即ち彼が市長に就職した翌年である。有名なダインの高僧彌里耳(みりえる)僧正が死んだと言って、その報知が田舎の新聞にまで載せられた。彼は之を見て、自分の服へ直ぐに喪章を着けた。余ほど彼は悲しんだ様子である。

 之を見て、上流の人達は、さては此の市長は、彌里耳僧正の親戚で有られたのか。それでは慈悲善根を積むのも無理は無いと、一方ならず尊敬することに成った。或人は故々(わざわざ)彼に問うた。

 「貴方は彌里耳僧正のお従弟(いとこ)だと聞きますが。」
 彼は答えた。
 「イイエ、何でも有りません。」
 その人「でも喪章をお着け成さるのは。」
 彼「私は若い頃、あの方の厩(うまや)に雇われて居ました為です。」

 もう斑井市長を尊敬しない人は一人も無い。彼の名は遠近に響き渡った。土地の人は何事が有っても彼に相談に来る。又相談さえすれば、必ず満足な結果を得るのだ。訴訟事でも裁判所へ持ち出さずに、先ず彼れに仲裁を頼む。彼が仲裁すれば必ず公平に治めてしまう。

 それだから十里二十里と離れた土地から、故々(わざわざ)彼の容貌風采を拝みに来る人さえ有る。彼が外に出ると、子供や又は特別に彼の世話に成った者達が、群れを為してその後に従って行く程とは成った。
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 併しこの様な中に、唯(たっ)た一人、斑井市長を怪しんで、何うしても心の解けない人が有る。それは此の土地の警察に巡査部長を奉職して居る、蛇兵太(ジャベルト)と言う者である。
 蛇兵太は、斑井父老が此の土地へ入り込んで、多少の地位を為した後に此の地へ転任して来たのだから、初めの事は知らない。

 けれど自分が来て後は、少しも斑井から目を離さない。その後、斑井の身分が上れば上る丈、益々彼は厳重に目を附けて、斑井が市長とまで成るに及んでは、何うしても此の市長の化けの皮を、剥いてやらなくてはと決心した様である。

 此の者は元、巴里の監獄の中で生まれた。母は愚民を欺いて世を渡る女占い師で、父は懲役に入って居た。是だけの成長(おいたち)で大抵その人柄は分かるだろうが、人情と言う者が毛ほども無い。何でも彼に取っては、法律の有る許かりで、人の善悪は唯法律に触れると触れないとで分かれるのだ。

 少しでも法律に背いたと見れば、直ぐに目を附ける。直ぐに証拠を挙げる。直ぐに密告する。直ぐに捕縛する。天然に捕吏と言う恐ろしい職務に生まれ附いて居るとでも言うのかも知れない。たとえ自分の父で有ろうが母で有ろうが、法律に違ったと見れば容赦は無い。

 それだから、ほかに何の取り所も無いけれど、二十年も巡査を勤めて、今は部長にまで登って居るのだ。大抵の人は一目彼の姿を見れば、震え上がってしまう。彼は何時ても、その額を帽子の縁に隠し、その眼を濃い眉の下に隠し、顎を襟の中へ突き込んで隠し、手先を袖口の中に隠し、警棒を外套の下に隠してノソリノソリ歩んで居る。

 宛(まる)で、羅紗(ラシャ)に包んだ箱が、歩んで居る様な格好で、少しも人間と見える様な所を現して居ないけれど、スハ怪しい者が見えたと為ると、手も足も目も口も、一時に隠れ場から現れて、飛び掛かかって、捕縛する。全く人を捕らえる機械の様に出来て居るのだ。

 此の機械は、初めて斑井父老の顔を見た時、何だか見覚えの有る顔だと怪しんだ。何でも暗い所を経て来た顔に違い無い。そうで無ければ、俺の眼に、こうも見覚えの残る筈が無いと言うのが彼の論法だ。

 幾日、幾月、彼は怪しんだか知らないが、終に思い出したと見え、
 「そうだ。もう逃さぬぞ。」
と呟いた。此の後と言う者は、機会さえ有れば、斑井に接近した。何が何でも確かな証拠を得なければと、唯それのみに労力を費やす様子で有った。

 けれど彼に対する斑井父老の様子には少なくも、他の人に対するのと異なった所が無い。同じ様に親切で丁寧で、同じ様に平気で、謙遜だ。身に暗い所の有る人とは、少しも思うべき手掛かりが無いので、彼も聊(いささ)か持て余して居たが、併し終に変わった所が有った。

 多分斑井父老は、蛇兵太が自分を怪しむ様子に、気が附なかったのだろう。けれど終に、気が附かなければ成らない場合が来たのだ。


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