巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百五十 最後 三

 斑井市長と戎瓦戎と同人だとは、全く守安の知らなかった所だ。彼は小雪と婚礼して以来、及ぶだけ戎の素性を探ったけれど、当の事は分からず、ラフ井ット銀行の会計を勤めた人から
 「斑井市長の預け金、七十余萬圓を引き出したのが、其の実、戎瓦戎で有った。』
と聞き、全く戎が市長の金を盗んだものと信じて居た。

 爾(さ)ればこそ小雪の資産七十萬金も其の盗んだ金だろうと思い、之に手を附ける事を嫌い、且(か)つは成る可く戎瓦戎を遠ざける様にして居たのだ。其れが今、戎と市長が同人であると分かっては、驚ろかない訳には行かない。
 此の一事で、守安の心には大革命が始まった。根本から思惑が違って来る。戎と言う曲者が、段々と守安の目に大偉人と見え掛けて来た。

 守安は又叫んだ。
 「戎が蛇兵太を銃殺しない。戎と斑井と同人だ。其の様な事は証拠が無くては信じられない。証拠、証拠」
 手鳴田は証拠を揃えて居る。彼は今まで幾度も銃瓦戎をユスろうとして、其の度に失敗した為、根こそぎ其の人の素性を洗い、証拠を揃えて、最後の勝利を得ようとして、様々に取り調べ、其の結果として、戎瓦戎と言う本名から、市長時代の事まで調べる事が出来た。

 勿論モントフアーメールにもモントリウルにも住んだ事のある彼に取っては、余り困難な取り調べでは無かったのだ。其れに彼は蛇兵太をも、自分の敵の一人と思って居るから其の溺死に関する新聞紙の記事なども蓄えて持って居る。
 彼は自分の足下に置いて有る鞄(カバン)の中から新聞三、四枚を取り出して、守安の前に置いた。古いのには斑井市長が戎瓦戎と露見して、裁判された宣告文が載って居る。

 新しいのには、蛇兵太が堡塁を出てから、其の筋へ発した報告の葉書の文と。彼の死体を検査した検視報告とが掲げて有る。疑う所は更に無い。
 守安は見終わって絶叫した。
 「この様な意外が又と有ろうか。戎は斑井市長と同人だ。彼の金は不正の金で無い。彼は慈善家だ。彼は悔い改めた真人間だ。君子だ。英雄だ。」
 殆ど夢中の様である。手鳴田は嘲笑って、

 「イヤ爾(そ)う感心するのは少し待ちなさい。戎瓦戎は君子でも英雄でも有りません。矢張り盗賊です。人殺しです。貴方の知らない事実が有るのです。」
と力の有る沈着な様子を以て云った。
 怒る様な声で守安は、
 「汝は戎瓦戎の。市長だった以前の、詰まらない犯罪を云うのだろう。以前に何の様な落ち度が有っても、其れはもう悉く償われて居る。悉く消えて居る。」

 手鳴田「イイエ、以前では無い、極々新しくて、此の手鳴田より外に知った者が無いから、其れで値打ちが有るのです。明白な証拠をまでお目に掛けますから、愈々(いよいよ)そうだと分かれば、何うか親子三人の米国行きの旅費だけ下さいよ。」
と先ず定価を附して置いて、

 「時は昨年の六月の六日、巴里の全市に一揆軍の騒いで居る際でした。イヤ、一揆軍が大抵負けて了(仕舞)った頃でした。場所はポンドゼナの辺の下水の樋の中です。」
 是だけ聞きて守安は思はず知らず、椅子を手鳴田の方に迫り寄せた。彼は自分の身が其の同じ時に其の同じ下水の樋の中を、何者にか運ばれて、其の同じポンドゼナの辺に連れ来たられたことが、其の夜蛇兵太に雇はれて居た御者の言葉で分かって居る。椅子の進むも無理は無い。

 自分の言葉が、余ほどの感動を与えたと見て、手鳴田は又も落ち着き、
 「其の日の六時頃に、兼ねて其の下水の樋の中へ、世を逃れて潜んで居る一人の男が、同じ樋(ひ)の中で人の足音を聞きました。不思議な事と良く見ると、身体の頑丈な曲者が死骸を擔(かつ)いで遣って来るのです。何うして先ア来られた者か、其の少し先方に、殆んど人間業では渡ることの出来ない様な、深い泥沼が有るのです。曲者は其の泥沼をも渡った者と見え、全身が泥塗れです。

 そうと見た私は、イヤ兼ねて潜んで居る一人は怪しんだ。彼奴(こやつ)は何故に泥沼へ死骸を捨てなかったのだろうか。アア分かった、下水の樋(ひ)が修繕に近づいて居たから、捨て置けば、一週間と経ぬうちに発見される。彼奴(こやつ)は露見が恐ろしいから何でも彼でも、セイン河へまで持って出て、沈める積りだな、斯(こ)う思ううちに曲者は下水道の出口へまで達しましたが、出口には鉄の格子戸が有って、其の合鍵は兼ねて潜んで居る一人が持って居ます。

 曲者は其の一人に、合い鍵を貸せと頼みました。其の一人は良く曲者の顔を見ると、兼ねて大力と噂の有る奴、争えば一人と一人だから、何の様な目に逢うかも知れないと思い、合鍵を出し、鉄戸を開き、死骸を擔(かつ)いだまま曲者を出して遣りました。直ぐに曲者はセイン河の土手に上り、水際へ降りて行きましたから、死骸に石を附けて、河中へ投げ込んだのは無論の事です。

 旦那何(ど)うです。其の曲者が戎瓦戎でですよ。潜んで居て合鍵を貸して遣ったのが此の手鳴田ですよ。何の為に戎瓦戎は死骸を擔(かつ)いで来たのでしょう。私の見た所では、確かに若い物持ちの紳士でした。彼は其の紳士を殺し、大金を奪ったに相違ないのです。此の頃聞けば、彼は七十萬からの大金を、当家の奥方へ婚資として贈ったと言いますが、彼のする事は旨いでは有りませんか。

 老い先の短い自分が持って居ては、露見せずには居ませんから、其れを当家へ贈り、自分は当家の岳父(舅)と為り、当家へ引っ越して、何不足なく尊敬せられる安全策を取って居るのです。所が爾(そ)うは私が承知しません。私は其の合鍵を貸す時に彼奴(こやつ)の気の附かない様に、そっと其の死骸の外套を之だけ切取って置きました。コレ此の羅紗の切れが、汚く泥に塗(まみ)れて居ますけれど、大変な証拠です。」
と言い、前の鞄から二寸五分角ほどの羅紗の切れを出して見せた。

 息をも継ぐことが出来ないほど、熱心に聞いて居た守安は、顔色を変えて返事もせず、非常に慌(あわただ)しく此の部屋を立去ったが、直ぐに泥塗れの古い外套を持って来て、今手鳴田の出した羅紗の切れを、其の外套に合わせて見た。外套にも二寸五分ほどの切り取った穴が有って、其の穴と其の羅紗の切れと、形は勿論、泥に汚れた斑紋までも、只(ぴた)と合った。



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