巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou16

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.16


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   噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

      十六 星部父老

 何の様な罪人でも、一旦蛇兵太(じゃびょうた)に見込まれたら、もう逃れられぬ。何うしても取り押さえるまで、執念深く付き纏(まと)うのが、蛇兵太の蛇兵太たる所である。たとえ罪人で無くとも、彼に疑われたら災難だ。何か欠点を見出される。此の様な男に、斑井父老が見込まれたとは実に不運だ。

 或時、雨の続いた挙句であった。一両の賃馬車が泥の中で転覆して、年老いた御者がその下に圧(し)かれた。此の御者は元、土地で公証人を勤め、姓を星部(ほしべ)と言い、世間から星部父老と呼ばれて、多少の尊敬を受けた人だが、丁度斑井父老が初めて此の土地へ来た頃に零落して、事務所を畳み、その日暮らしの憐れな身とは成った。

 何しろ取る年で、是と言う仕事も出来ないから、自分が盛んな頃に乗った馬車を、そのまま貸馬車とし、昔自分の為に馭(ぎょ)した腕で、人の為に馭する事とは為った。こう自分が零落した頃から丁度斑井父老がメキメキと繁昌を初めたので、此の人のみは、世間が総て斑井不老の徳に服した中で、独り斑井不老を憎んで居た。憎むと言う程で無くとも、斑井の出世を快く思わなかったのだ。

 それはさて置き、此の通りの年である為め、今は十分に馬を馭する事さえ出来ず、雨後の悪路で手綱を取り損じ、馬と車とを共に倒して自分がその下に成った。

 直ぐに通り合す人々が其所(そこ)へ集まったけれど、どうする事も出来ない。重い車が、捏(こ)ね返した深い泥に食い入って、次第次第に沈む許かりだ。沈むと共に老人の体は益々圧迫されて、今にも胴骨が折れるか砕けるのは必定である。彼は唯悶(もが)き、唯苦しみ、

 「痛い、痛い、早く助けて呉れ、もう死ぬる。死ぬる許りだ。」
と悲鳴をあげて叫ぶ様子は、聞くに忍びず、視るに忍びぬ。
 彼の蛇兵太までここに来合わせて居るけれど、手を下し様が無い。
 悲鳴の声や、人々の騒ぐ声を聞き付けて、斑井父老もここに来た。彼は直ぐに馬車の周囲を見回って、

 「誰か槓桿(てこ)を持って来い。」
と叫んだ。けれど持って来る者が無い。斑井は又見廻して、
 「アア、馬車の下に、まだ少しの隙がある。誰かあの下へ這(は)って入り、背(せな)で馬車を持ち上げれば、星部父老を助ける事が出来る。サア誰か潜って入る者は無いか。褒美はここに五ルイある。」

 五ルイと言えば百法(フラン)(現在の約50万円)である。誰だとて、之を欲しく無い者は無いが、馬車の下へ潜(むぐ)って入れば、星部父老と共々に圧し潰されるのは必然である。諸人は唯顔を見合わした。その中に老人の悲鳴は又聞こえた。今は絶え入る程の苦痛である。斑井父老は宛も自分の身の苦痛の様に気を揉(も)んで、

 「それでは十ルイ遣(や)る。」
 十ルイの声にまだ応ずる者が無い。斑井は三たび叫んだ。星部老人を助けた者には二十ルイだ。」
 四百法(フラン)の大金でも馬車の下に入る者が無い。

 斑井父老「ええ、今の中で無ければ馬車が益々沈むから、這入る隙間が無く成ってしまう。サア誰か、サア誰か。」
 先程から窃(ひそ)かに、斑井父老の様子をのみ狙(にら)んで居た蛇兵太は、父老の傍に寄り、穴の開くほどにその顔を眺めつつ、
 「馬車の下へ這入ったとて、星部老人を助ける事は出来ません。全く共々に圧し潰されます。私の知って居る所では、下から此の馬車を持ち上げるほど、物を背負う力の有る人は、此の世の中にたった一人です。」

 タッタ一人と言う言葉に斑井父老は異様に震えた。その中に馬車の下から悲鳴の声が又聞こえた。斑井は苦痛の顔で又馬車の下の隙間を見た。蛇兵太は語を続け、
 「タッタ一人と言うその人は、先年懲役場に居たのです。」
 斑井は単に、
 「そうですか。」
と答えた。蛇兵太は又も斑井の顔を見て、

 「ツーロンの監獄所に服役して居た奴です。」
 確かに戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の事を指して居る。斑井は少し顔の色を変じた。此の時悲鳴が又聞こえた。
  「誰か星部父老を助ける者は無いか。」
と斑井は又も叫んだけれど、誰も応じない。其の中に馬車と地との隙間は愈々少なくなった。蛇兵太の呟(つぶや)く声が又も聞こえた。

 「ツーロンのあの囚人で無くては、とても駄目だ。」
 斑井は絶望する様に、蛇兵太の顔を見た。彼れの眼はまだ我が顔に注いでいる。更に斑井は他の人々の顔を見廻して異様に笑んだ。此の笑みには、殆ど身を捨てる決心まで籠って居るのでは無いだろうか。

 彼は直ぐに帽子を脱いだ。そうして一同が、何をするのか理解出来ないでいる間に、身を屈して馬車の下の隙間の所に入った。
 一同はそれと知って、驚いて絶叫した。
 「斑井父老、斑井父老、その様な事を成さっては。」
と今まで悲鳴を上げて居た星部父老も、苦しい息で、

 「斑井父老、私は死んでも好いのです。出て下さい。出て下さい。」
 今出なければ、全く命が無いのだ。唯一人之を喜ぶのは蛇兵太である。彼は斑井父老が馬車の下で、必死の力を出す時には、顔に必ず昔の顔かたちが一層明らかに現れるだろうと信じて居る。彼の目は殆ど鷹の目の様だ。馬車の下に入った斑井の顔に鋭く注いだ。

 けれど、斑井は頓着しない。唯だ人の命を助け度い一心だ。彼は全身の力を以て、馬車を擡(もた)げた。けれど馬車は動かない。彼の顔は朱を注いだ様である。彼は再び全力を出した。馬車は動かないこと、初めの通りだ。彼は三度めの死力を出した。

 之で動かなければ、人間の力には及ばないのだ。馬車は動いた。泥に没したその轍(わだち)が一尺(30センチメートル)ほど抜け出た。



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