巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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  噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 

     二  其家を覗き初めた

 宿屋の主人(あるじ)は、尚も彼(あ)の紙切れを客の目の前に差し付けて言葉を継ぎ、『戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)が何者かと言う事も分かって居る。ここで声を立てて言いましょうか。サア言わないうちに立ち去りなさい。私は一目見た時に怪しいと思ったから、直ぐに小僧を警察へ走らせたら、此の通りの返事です。読めるなら自分で読んで見るが好い。』

 旅客は僅かに眼を上げてその紙切れを見た。主人は最後の一言を下した。
 「私はお客様に丁寧だからーーーー。サア、お去りなさい。」
 もう去らない訳には行かぬ。客は首を垂れたまま荷物を取り上げて、悄々(すごすご)と立ち去った。真に喪家の犬よりも哀れむべしである。

 立ち去って彼は、人の家の軒下を潜(もぐ)る様にし、何処と目指す頼りも無く歩んだ。首は依然と垂れて後をも向かない。若し向いたなら、今の宿屋の門口に、主人を初め大勢の人が立ち、自分の後姿に指さして、しきりにしゃべって、噂している状(さま)をも見、従って戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)と言う危険な男が、此の土地に入り込んだと言う噂が、半時間と経(へ)ない中に、此の狭い町中に広がる事に、気が附く所であった。

 彼は少しも是等の様子を見ない。彼の様な難儀の重荷を背負って居る者は、振り向きなどしない。振り向かなくても、自分の後へ不幸せばかり附いてくることを、知り過ぎるほど知って居るのだ。

 唯失望の余りに彼は、幾時か夢中の様で歩んだが、忽ち空腹の苦しさが冴え返ったので、気が附いた。何処かで食と宿とを得なければ成らない。何うせ宿屋らしい宿屋では、泊めて呉れないのだから、今度は何の様な所でも好いと、首を上げて見回る目先に、シャフヲー街と記した安宿の看板が見えた。

 アア助かるのはここである。直ぐに彼は歩み寄ったが、中には矢張り旨(うま)そうな食物の匂いがして、幾人かの客が飲み、且つ食いながら、談話に興じて居る。入口は町の方へ開いて居るのに、彼は気が退(ひ)けて其処からは入ることが出来ず、横手の潜(くぐ)りを開くと、喜んで向えた主人、

 「サアサア、丁度もう一人お客が欲しいと思って居た所です。夕飯と寝床、分かりました。肴も沢山に出来て居るし、サア先ず火の傍へ来てお煖(あた)り成さい。」
 全く助かった想いがして旅客は又も荷物を卸した。

 動揺(どよ)めいて居た客の一同は、何の様な仲間が増えたかと、此方を見たが、其中の一人は、丁度先刻、彼のコルパスの宿屋へ馬を預け、此旅客の断られる所を見、又その悄々(すごすご)と立ち去る後影をも眺めて、色々の噂を吐いた一人である。

 彼は今しも打ち寛(くつろ)ごうとしている新客の姿を、じっくりと透かし見て、この家の主人を手招き、その耳に囁き告げた。
 「此奴(こやつ)だよ、此奴だよ。戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)と言う監視者は。何でも非常に危険な悪人だと言うのだから。」

 こう語って居る中に、新客は少しの間眼を上げて此方を見た。確かにその顔には、天然に刻み附けた深い悲しみの中に、今ヤッと少しの安心が浮かび掛けて居る。頬の角張った辺りから、眉骨の高い所、決心も有り元気もある。

 一寸見れば、打ち挫(くじ)けて意気地無くも見えるけれど、随分厳しい相も有って、特に深い眼が、盛リ上がった眉の底に光って居る状(さま)は、草叢の闇の奥から、火の光が見える様で、何と無く物凄い。けれど彼は自分の事を囁かれて居ると思はないのか、やがて又俯向いた。

 今の囁きを聞き終わった主人(あるじ)は、直ぐに新客の許へ来て、無遠慮にその肩へ手を掛け、
 「ここに居てはいけません。立ち去って貰いましょう。」
 客はもう抵抗する気力も無い。殆ど飢えに死にかけて居る様な者だ。低い声で、

 「エ、知って居るの。」
 主人「知って居ます。」
 客「彼方(あっち)の宿屋でも断られ」
 主人「だから此方(こっち)の宿屋でも断るのだ。」
 客「では何処へ行けと言うのだ。」
 主人「何処へでも勝手に」

 憐れ此の客は、又荷物を取り上げて、力無く外に出た。外には先刻の宿屋の辺から、ゾロゾロと後に附いて来た子供が待って居て、彼の去る後から、泥棒猫をでも追う様に石を投げた。
彼は初めて振り向いて、持って居る杖を振り上げた。子供は群鳥の様に散った。

 彼は此土地の監獄の前に出た。もうここより外に、彼の宿とすべき所は無い。そのまま門の戸に垂れて居る案内の鎖に、手を掛けて鈴を鳴らした。番人が窓の戸を開けた。彼は破れ帽子を脱いで一礼し、

 「お番人様、何うか戸を開いて私を牢の中へ、今夜だけお留下さい。」
 窮状もここに至っては、極度である。直ぐに答えの声が聞こえた。
 「ここは宿屋では無いワイ。捕縛せられて来い。そうすれば留めて遣(や)る。」
 声と共に窓は閉じた。

 此の上は何処へ行く。行く所は無いけれど、行かねば成らない。彼は但(と)有る細道に入った。ここには多く庭の広い屋敷が有って、中には低い生垣に囲まれて、飛び越えれば、入ることの出来そうな庭も有る。彼は此の家、彼(あ)の家と見回る中に、一軒、窓から灯光(あかり)の差して居るのが有った。彼は先刻、安宿を覗いた様に、身体を傾けて、その家を覗き初めた。


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