巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou20

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十 畜生道に落ちた

 髪は女の容色の第一である。貧の為に之を切って売るとは、よくよくの事だ。更に生きた前歯を抜いて売るとは何と言う無残な次第だろう。歯が無ければ女で無い。怪物だ。 
 此の様な場合にまで立到っては、もう何の様な事でもする。何を惜しみ、何を憚(はばか)るに及ぼうぞ。華子はもう全くの自棄(やけ)とは成った。

 自棄(やけ)と成る外に仕方が無い。鏡などは二度と見る気がしないから、窓から外に叩き附けて砕いてしまった。けれど是が為に貧苦は癒え無い。癒えぬのみかは益々重くなる許りだ。着物も有る丈は売ってしまった。家具も造作も追々に無く成った。僅(わず)かに残って居る品物は、借金の方《担保》にと言って雑作家が持って去った。

 後には寒いのに着て寝る夜具も無い。こうなれば容貌などは何う成ろうと構わない。着物は破れるに任せ、顔や身体(体)は汚れるに任せて、繕いもしなければ洗いもしない。全く人であって獣の境遇だ。
 見るもの聞くもの、総て腹の立つ種と為る。人が憎い、世の中が憎い、取分けて斑井市長を恨む心などは、殆ど極度にまで募った。

 此の様な状態で、果ては何う成り行くだろう。その上に前から悩んで居る、怪しそうな咳が、寒い想いをするに附け、益々重く成る許りだ。而も此の酷(ひど)い最中へ、又も手鳴田から難題の手紙が来た。百円の金を送れと言うのだ。送らなければ、やっと病気の治り掛けて居る小雪を、寒空に叩き出すと書いてある。

 手鳴田へ送るべき養育料が、もう少なからず滞って居るのだから、此の様に言われても仕方が無い。と言って百円の金が何うして出来よう。生き歯まで抜いて売った後だもの、
 「エエ、もう此の身を売ってしまおう。」
と華子は叫んだ。

 身を売れば人間で無くなるのだ。畜生道へ落ちるのだ。自分の肉を切り売りする様な者だ。けれどもう華子の心は人よりも獣に近い。情けも無い、恥も無い、有るのは唯だ娘の可愛さと人の憎さだ。遂に其の日の中に身を売った。愈々畜生道には落ちた。

 ああ文明の法律で、奴隷は廃止に成ったと言うけれど、社会には依然として奴隷が有る。貧苦が奴隷を作るのだ。そうして社会が之を買い取るのだ。法律で許して有った頃の奴隷売買よりも残酷だ。
  *     *     *     *     *    *     *     *     *
 翌年の一月、雪の降る寒い夕方の事である。蕩楽者の寄集まる風儀の悪い料理屋の前に、厭(いや)らしいほど華美(はで)に見える夜会服を着けた一人の女が、行きつ戻りつ徘徊(はいかい)して居る。是れは夜会の為で無く、客を引く為である。慣れた人の目には一見してそれと分かる。

 顔には殆ど人間の色も無く、人間を離れた様な只物淋しい面影が有るけれど、白く現れて居る襟首は多少の恰好を存して居る。此の寒いのに何時まで徘徊して居る事かと怪しまれたが、店の中に一人の客が居て、此の女が窓の外を通る度に、唾と共に煙草の煙を吹き掛けなどして嘲(あざけ)って居る。

 「何と言う醜い顔だ。」とか「歯抜けの婆(ばばあ)」とか言う様な聞き苦しい言葉が幾度と無くその客の口から出る。けれど女は聞かぬ振りである。
 客は土地の物持ちの息子でも有ろう。当時の蕩楽者(どうらくもの)の仲間に流行する、荒い縞の服に大きな襟(カラー)を着けた所から、総ての様子の横柄な所などは、いずれ財産の威光を以て、人を苛(いじ)めなどして面白がる連中の一人である。

 彼は散々に女を罵(ののし)ったけれど、少しも女が気にしないのを見て、是では足りないと思ったか、やがて窓の外に出て、両手に雪を掬(すく)い取り、女の行く背後から、その首筋の所を目掛けて浴びせ掛け、そうして喝采する様に打ち笑った。真に悪戯(いたずら)にも程が有ると言う者だ。

 勿論襟の所を切り開いて腹まで現した服だから、女は夥(したた)か雪を浴びた。今まで平気を粧(よそお)って居た忍耐が尽きたと見え、彼女は忽ち恐ろしい叫び声を発し、狂った獣の様に此方に振り向き、紳士の身に飛び掛かって紳士の顔を引っつかみ引っ掻いて、猶も悔しそうにしがみ附いた。

 今まで散々に嘲(あざけ)られ、辱められた状況を思うと、少しも之は無理で無い。自他の区別も忘れる程に腹が立ったのだろう。けれど紳士は驚いた。醜業をする様な女に、此の様な待遇を受けるのは初めてである。振り放なそうとしても、女は死に物狂いの様で中々離れない。

 組みつ解(ほぐ)れつ双方が一塊と為った。周囲は、早や居合わせた他の人々が取り囲んだ。若し此のままに置いたなら、何の様に果てるかと疑われたが、やがて群衆の中から、警官の服を着けた恐ろしそうな大男が出て、女を捕らえた。その間に相手の若い紳士はコソコソと身を引いて人の中に姿を隠した。

 捕らえられた女は華子である。捕らえた警官の顔を見て、彼女は忽ち恐ろしさに耐えない様に萎縮した。萎縮するのも道理である。捕らえたその人は、虎よりも恐るべしとして、市中の何人も戦慄(せんりつ)する巡査長の蛇兵太である。



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