巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou23

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十三  運命の網

 気絶した華子を、早速に斑井市長は、自分の建てた病院に送らせた。そうして、自分は自ら諸所を奔走して、その夜の中に、華子の今までの身持ちから、苦労し辛抱した次第などを聞き糺(ただ)した。

 華子の容態は思ったよりも重かった。何しろ無理ばかり続いて居る身体だから、一旦躓(つまづ)けば、様々の欠点が現れて来る。それに前から肺に故障の有る所へ、冷たい雪を浴びせられたのだもの、無事に済む筈が無い。詰まるところ、それや此れや種々の原因が重なったのだろう。

 夜中から熱を発して、翌日の昼前に、漸く人心地には回復した。その時初めて華子の口を出た言葉は、娘小雪の名であった。全く華子の心の中には、娘の事より外は何にも無いのだ。

 市長斑井が、華子を傷(いた)わった事は、並大抵では無かった。彼は暇さえ有れば、自分で見廻り、親切な言葉を以て慰めた上、昨夜約束した通り、愈々(いよいよ)小雪を引き取ってやると言い、手鳴田へ払うべき、養育料の滞りなどを調べた。

 そうで無くても華子は、もう深く市長の徳に感じて居るのだから、真実に有難く思い、且つ喜んで、
 「小雪の顔さえ見れば、直ぐに病気は直ります。」
とまでに言った。

 養育料の滞りは百円余りで有った。斑井は之に向かって三百円の金を送り、直ぐに小雪を連れて来てくれと言い送ったが、余(あんま)り金が多かったので、手鳴田は却(かえ)って欲心を発した。彼は妻に向かって言った。

 「エ、屹度華子に好い旦那が出来たんだぜ。小雪を此方(こっち)へ留めて置けば、まだ此の上にも搾(しぼ)れるだろう。」
と。そうして彼は五百円の勘定書きを送った。その内訳の中には医者や薬屋の受取なども入って居る。

 之は自分の娘絵穂子と麻子とが病気した時の書付なんだ。その様な者を取り混ぜて旨く計算を作ったのだ。市長は之を見て、三百園を送った。是では百円余るのだ。そうして、
 「大急ぎで小雪を連れて来たれ。」
との催促を添えた。

 けれど手鳴田は、小雪を連れて来ない。此の後も度々催促を送ったけれど、或いは、此の寒いのに連れて行けば、途中で風邪を引かせるだとか、或いは猶(ま)だ前便に調べ洩れた勘定が有るから、其れを取り調べ中だとか、様々の口実を書き列(並)べ、返事の手紙を寄越すのみだ。

 その中に早や四十日ほどを経たが、華子の病気は益々重くなる一方だ。その重くなる病気の中で、華子は常に小雪の事のみを言い、斑井市長が見廻りさえすれば、
 「小雪は何時来るのでしょう。」
と問うのだ。市長はその度に

 「イヤもう来なければならないのだが、今日来なければ明日は必ず来るでしょう。」
と自分の心に信じて居るままを答えて居たが、小雪は終に来ない。もう此の上は、直々に人を遣(や)る外は無い。

 「そうで無ければ、私が自分で行って来ます。」
と言い、委任状を作って華子に署名させた。その文句は、
 「手鳴田殿、此の手紙持参の人へ、直ぐに小雪を御渡し下され度く候、小雪の身に附いての費用等は、一切此の人が払い申すべく候。華子」
と言うので有った。
 是れさえ持って行けば、幾等手鳴田でも、逃れる道が無いだろう。

 此の委任状を持って、斑井市長が自ら出掛けて行く許(ばか)りとは成ったが。誠に運命の絲(いと)は、目に見え無い網の様な者で、誰も知ら無い間に、人を金縛りにし、思う通りに出来無い様な仕宜(しぎ)《事の成り行き》に立ち至らせてしまうのだ。

 この様な事の間に、他の方面に容易なら無い禍いが熟しつつあった。それは外で無い。彼の蛇兵太から起こったのだ。
 蛇兵太は斑井市長と争ったその夜に、長い手紙を認めて、巴里の政府へ送った。

 何かの密告状ででも有ろうか。或いは市長に対する不平の余り、他の土地へ転任でも請う為に、辞表をでも出したのだらうかと怪しまれたが、市長が明日、手鳴田の許へ立とうと思う前日に、彼は市長の許へ尋ねて来た。

 その様子が、何時もの厳かな彼れと違い、非常に愁いをでも帯びて居ると言う風で、全く打ち萎(しお)れて居る。市長は怪しんで問うた。
 「蛇兵太さん、何の御用事です。」
 蛇兵太は力の無い声で、
 「お願いが有りまして。」
 市長「ハテな、お願いとは。」

 蛇兵太「何うか私を免職する様に、貴方から中央政府へ、御申立てを願います。」
 実に不思議な言い分である。市長は益々怪しんで、
 「エ、免職、免職がせられ度いなら、御自分んで辞表を出すのが好いでは有りませんか。」

 蛇兵太「私はそうは思いましたけれど、自分からの辞職では済みません。私には大変な落ち度が有りますから、免職せられるのが当然です。私は免職を言い渡されるのが、自分の義務だと思います。」

 その落ち度とは、何の様な落ち度かは知ら無いけれど、流石に蛇兵太である。彼の一念は、唯政府と言い、職務と言う事で固まって居る丈に、落ち度に対しても、辞職だけでは済まない者、免職せられなければ成ら無い者と、職務的に信じて居る。彼は職務の有る間、職務的な許かりで無く、職務を失うにも、矢張り職務的に失うのだ。

 彼は職務の化け物である。併しその落ち度とは何だろう。市長は問い返した。
 「ご自分で落ち度とは何の様な事柄です。」
 蛇兵太「ハイ先頃、あの華子と言う女の事に就き、貴方と権限を争いました時に、私は余(あんま)り腹が立ちましたから、直ぐに書面を持って巴里の中央政府へ告発しました。」

 市長は笑った。
 「ハハハ、私を告発、市長の身を以て警察に干渉したと言う告発ですか。
 蛇兵太「イイエ、そうでは有りません。斑井市長はその実、懲役から出て来た前科者で、公の職務を奉ずる、公権の無い人だと告発したのです。」

 斑井市長は返事の言葉が喉に詰まった。出し度くても、声が出ない。顔は殆ど鉛の様な色に成った。
 


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