巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou24

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.24


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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十四  本当の戎瓦戎(じゃんばるじゃん)が

 「懲役から出て来た前科者として市長を告発しました。」
と言う、蛇兵太(じゃびょうた)の此の一語が、斑井市長の耳に何の様に響いただろう。真に市長の顔色は見るも気の毒な程で有った。けれど蛇兵太の方は、一つの事にこだわって心配して居て、市長の顔を見ない。自ら下を向いて話して居る。是だけは市長に取って、先づ仕合せとも言うべきだろう。

 蛇兵太は市長の返事を待たない。そのまま言葉を継ぎ、
 「私は全くそうに違い無いと思ったのです。初めて此の土地へ来て、初めて貴方を見た時に、何だか見覚えの有る様に思い、良く気を附けて見ると、第一貴方の歩み振りが、何だか足を引き擦る様に見えるのです。

 是は牢の中に長く居て、足へ重い分銅を、着けられて居た人の歩み振りだと、私は此の様に思いました。御存じの通り、重い懲役人の中で、危険な奴と認められた者は、足へ分銅が着けられるのです。分銅を着けられて長く居る間には、足の癖が違って、異様な歩み方をする様に成り、人に依ると生涯、その癖が抜けません。

 貴方の歩み振りには、何だかその様に見える所が有りますので、扨(さ)ては、長く懲役に居た事の有る、大変な前科者だと思いました。そう思って又考えると、確かに私が、ツーロンの監獄へ、助手に雇われて居る頃、屡(しばし)ば逃亡を企てた罪人だと言うのが有りました。貴方の顔が、何だかその者に似て居る様に見えるのです。

 それから益々気を附けて居ますうち、あの星部老人が、馬車に圧(し)かれた事件が有りました。その時貴方が馬車の下へ潜り入り、背中でその馬車を持ち上げ成さったので、もう愈々(いよいよ)違いが無いと思い込みました。今申したツーロンの囚人と言うのが、何をさせても四人力以上有って、特に物を背負い上げる力などは、驚くべき程でした。

 その罪人は姓名を戎瓦戎(じゃんばるじゃん)と言いましたが、私はあの時から、貴方の事を自分の心の中では、斑井市長とは言わず、戎瓦戎と言って居たのです。それだから先夜、貴方と争った時、忌々しさに耐えられず、もう黙っては居られないと思い、直ぐに貴方を告発したのです。戎瓦戎だと言って中央政府へ密告したのです。」

 長い説明の間に、漸く斑井市長の顔色は、さほど目に立たないまでに直った。そうして声も平らに出る事に成った。併し彼は、テーブルの上に在り合わせた記録帳を開き、筆を以て何やら取り調べて、書き入れる様な振りをして居る。之は心の騒ぐ様子を見せ無い様にしようと、紛らわせて居るのでは無いだろうか。

 それとも真実に取り調べる必要が有ってだろうか。彼は極めて用心深い様な調子で、徐(おもむ)ろ《ゆっくりと》に蛇兵太に問い返した。
 「そうして中央政府では貴方へ何と言う返事を寄越しました。」
 蛇兵太「私を、気でも違ったのだろうと言いました。」

 扨(さ)ては彼の密告は、採用せられなんだと見える。それだから彼、自分の落ち度と知って、免職せらるべき場合だと思う事に成ったのだな。
 それにしても彼のその疑いは、根本から解けたのだろうか。彼はもう成るほど、自分の疑ったのが、全くの思い違いで有ったと、思い直したのだろうか。

 彼は又語を継いだ。
 「実は大変な失策でしたよ。全く中央政府に居る、上官の言う通り、私は気が違って居たのですよ。」
 市長は曖昧に、
 「先ず何にしても、仕合せです。」
と答えた。

 何が仕合せなんだろう。市長が前科者で無いと分かったのが仕合せなのか、それとも蛇兵太が辞職する様に成ったのが、仕合せなのか。直ぐに蛇兵太は言葉を続け、
 「イヤ仕合せにも不仕合せにも、全く私の見込み違いで有ったのだから、強情を張る訳には行きません。何と言う事でしょう、私の密告状の届く前に、本当の戎瓦戎が、その筋へ捕えられて居たのです。」

 本当の戎瓦戎がその筋へ捕(つか)まった。アアその様な事が、有り得るだろうか。斑井市長は、先ほど初めて密告の事を聞いた時よりも又一層驚いた。手に持って居る筆が、自ずからテーブルの上へ落ちて、転がったけれど、彼はそれを取り上げる力が無かった。顔は勿論土気色である。そうして唯だ、
 「オーヤ」
と呟いた。

 蛇兵太「ハイ、全く捕まったのです。兎に角、戎瓦戎は妙な悪人ですよ。その筋の調べに依ると、牢を出て間も無くダインの地方で何とか言う僧正の家に入って窃盗し、その翌日又、その付近の野原の中で、十一、二になる子供を捕らえて、追剥(おいはぎ)同様の怪しからぬことを働いたと言います。

その頃から今まで、凡そ八年の間、何所へ行ったか、少しも分からず、何でも今度捕まれば、無論終身懲役ですから、自分でも余ほど用心したと見え、何うでしょう、クロチエと言う片田舎へ隠れて居たのです。それが妙な事から捕まって、到頭旧悪が露見する事に成ったのです。

 何しろ彼は既に二十年ほどの刑を経て居るのですから、もう何所の裁判所へ持って行った所で、終身刑の外に宣告の道は有りません。今、丁度アラス地方の裁判所へ、連れ出されて居るのです。」
 市長の顔色は唯悪くなる許りだ。



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