巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou26

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.26


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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十六 難場の中の難場

 耳を澄まして蛇兵太(じゃびょうた)の立ち去る足音を聞いて居た此の斑井市長が、その実以前の戎瓦戎(ぢゃんばるじゃん)であることは、読者の既に察して居る所だろう。
 彼がダインの野原で子供の銀貨を盗んで以来、今の身分に成った迄の次第は、略(ほぼ)分かって居る通りである。

 彼は心を入れ替えた。全く堕落の谷底から、自分の力で善人の峰の頂上に攀登(よじのぼ)ったのだ。勿論自分の力でである。とは言う者の、限り無き彌里耳(みりえる)僧正の高徳が、彼を感化したことは言う迄も無い。彼の心には、今でも彌里耳僧正の心が宿り、彼の目には僧正の面影が見え、彼の耳には僧正の声が残って居る。実に一個人の誠心が、良く他の一個人を感化する力は、何れほど強いやら計られぬ。

 彼は唯だ彌里耳僧正を手本とし、僧正の様に身を持ち度いと期して居るのだ。
 之が為に、彼が今まで積んだ艱難辛苦は、何れほどで有るか知れ無い。その上に彼は、慈悲善根をも重ねた。そうして漸(ようや)く今の自分の地位を作り出したのに、旧悪の報いが、未だ亡び無いのか。

 蛇兵太の様な者が有って、彼の身に纏(まつ)わって居る。のみならず、他の人が、戎瓦戎と誤認せられて、終身の刑に処せられ掛けて居るとは、何と言う奇妙な廻り合わせだろう。天は到底此の人に、人間並みの安楽と言う事を許さないのだろうか。

 蛇兵太の立ち去った後に、彼は唯だ黙然として考えて居たが、その中に何時も病院へ行って、華子の見舞いに行く刻限とは成った。彼は異様に落ち着いて居る。先ず帳簿などを片付けて、徐(おもむ)ろ《ゆっくりと》に立ち上がり、病院を指して行った。

 多分落ち着いて居る訳では無いのだろう。余(あんま)り心が騒ぐ為め、思案する力も無く、唯だ日々の決まりに従って、為(す)るとも無しに此の様な事をするのだろう。

 自分が真の戎瓦戎であるのに、他人が戎瓦戎と認められて、必然終身刑に処せら様として居るのを、黙って見て居る事が出来るだろうか。と言ってその人を救う為には、自分が今の地位を捨て、今までの事業を捨て、その人と為り替わらなければならない。

 アア十九年の永い懲役に服し終わって、僅(わず)かに八年、又もその苦役に帰り、生涯を獄の中に埋めなければ成らないだろうか。如何に悔悟した善人とは言え、如何に彌里耳僧正の感化を受けて居るとは言え、一身に取って、此の様な大事件がそう容易に思案せられようか。一時間や二時間で、何で心を定めることが出来ようものぞ。

 心は未だ定まらないけれど、彼は先ず病院に行った。彼の顔は暗く曇っては居るけれど、人に心の底を悟られる彼では無い。多分は必死に自分を制して居るのだろう。やがて彼は、華子の枕元に座したが、華子は彼が傍に居る間は全く病苦をも忘れる様子である。

 それも無理は無い。華子が彼の徳に感じたのは、彼が僧正の徳に感じたのに比すべきである。彼も又、華子の枕辺に居る間は、心が悠乎(ゆった)りと解けて居る様に見える。何時もは三十分ほど話して去るのだけれど、此の日は三十分経っても去らない。四十分、五十分、到頭一時間ほど留まった。華子の深く喜ぶ様子がその衰えた顔に見えた。

 その間に彼は医者にも逢った。医者は言った。
 「時々刻々に衰えます。もう永くは有りません。」
と。之を聞いて彼の顔は又一層曇ったけれど、それは少しの間で有った。看護婦対して、彼は様々の注意を与えたが、その趣旨は、総て親切に華子の心を慰めてやれと言うので有った。

 華子への親切は、娘小雪を連れて来て、逢わせてやるのが第一である。華子は二度までも小雪の事を問うた。二度とも市長は答えた。
 「ナニ直ぐに参りましょう。」
と。彼は自分で華子からの委任状をまで持って居るのだ。全く直々出張して連れて来る積りで有った。けれど今と為っては、その様な事が出来るだろうか。

 一方には身に降り掛かった大の事変が有る。そうして一方には、此の小雪の事。実に難場の中の難場である。
 けれど彼はその色を見せずに去った。来た時と同じ様に、静かに歩んで外に出たが、道に前から知って居る馬車屋が有る。彼は之に立ち寄って、一日五十哩(マイル)《約80km》を行き、翌日に直ぐに五十哩を帰るほどの達者な馬車が有るかと問うた。

 重い荷物をさえ積まず、一人乗りの極く軽い馬車を引かせるならば、それ丈の路を請け合う事の出来る馬が有ると、馬車屋は答えた。彼は満足した様子で、
 「ではそれを借りる事にしよう。之は二日間の賃金だ。」
と言って数多(あまた)の金を与えた。

 馬車屋「併し旦那、馭者が一人附けばそれだけ重く成りますが、貴方は馭者無しに、御自分で馬車を操る事がお出来ですか。」
と問うた。市長は
 「出来る。」
と答え、更に
 「では明朝の四時半までに、私の家の前へ着けて置いて下さい。少しでも時間が遅れると困るから。」
と言い渡した。

 四時半と言えば、何人も起き出さない中である。彼は此の馬車を用いて、何所へ行く積りだろう。



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