巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou27

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十七 永久の火

 全く難場の中の難場とは斑井市長の今の身の上で有る。世の中に此の様な辛い事情が又と有り得ようか。
 獄中に送った十九年は夢として、その後の艱難辛苦、真に身を粉にする程に働いて、唯人の為をのみ計り、漸(ようや)く今の身分に押し上げられたのに、又元の戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)に帰らなければ成らない事に成った。

 アラスの裁判所へ自首して出るのは明日の中である。明日の夜を過ごせば、戎瓦戎で無い人が戎瓦戎として終身の刑に処せられるのだ。而も又一方には汪多塿(ワーテルロー)の宿屋から、少女小雪を引き取って来て、死にかけているその母華子に逢さなければ成らない。何から何う運んで好いか、未だ思案も附かない。けれど兎に角早い馬車が要る事だけは確かだから、一日に五十哩(マイル)行って次の日に五十哩帰る俊足の馬と車を雇う事にはした。そうして我が家に帰って来た。

 此の様な時には、何でも心と身体(体)とが確かで無くては成らないからと、先ず充分に夕飯を喫し、その上で二階の居間に閉籠った。ここで良く思案するのだ。先ず考えて見るのに、どうしても自首しなければ成らないだろうか。イヤ必ずしもそうでは無い。私を真の戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)だと疑う者は、広い世界に蛇兵太の外には無い。けれども彼は既に疑いが解け、その非を悔いて自分から免職して貰い度いとまでに願って居る。

 此のままに放って置けば、彼れは此の土地にさえ、居ない事に成ってしまうのだ。或いは是れが天の配剤では無いだろうか。何も自分からそう仕向けた訳で無いのに、自然に戎瓦戎の身代わりが現れて、私を疑う唯だ一人の証人は、此の通り消えてしまう。全く私に運が有るのだ。天が私を助けて居るのだ。

 私は唯だ知らない顔で、今までの通り、日々の事務を取って居れば好い。そうすれば、無事太平の斑井市長で生涯変わる事は無い。それだのに、何を苦しんで、此の天の恩に背き、再び戎瓦戎と言う、自分でさえ身震いのする様な、浅ましい昔に帰って、此の身を終身刑と言う地獄の底に埋めようとする。出来ない。出来ない。それは出来ない。
 とは言え、今までの艱難辛苦は何の為ぞ。唯だ罪に穢(けが)れた一身を洗い清め、善人として我が心を救い度いのみである。

  「汝、魂を入れ替えよ。生まれ替わった様な人と為れ。」
 是が肝に刻んだ、彌里耳(みりえる)僧正の戒めである。今若し昔の戎瓦戎に帰るなら、生まれ替わった人とは言えない。善人では無い。依然たる悪人の魂である。魂を入れ替えた所が何処に有る。真に我が心を救うには、我が身を永久の地獄に落とさなければ成らない。人の目から見れば之は堕落。天の目から見れば之は復活である。生まれ替わったのである。

 身の極楽は心の地獄、此の世の栄耀(えいよう)《輝き栄えること》は永遠の堕落である。破滅である。彌里耳僧正は此の様な、栄耀の堕落を求めよとは誨(おし)え《丁寧に教え諭すこと》なかった。
 「好し、もう心は決まった。此の身は義務に従わなければ成らない。自首して彼を救わなければ成らない。」
と市長は叫んだ。叫ぶ声が、思わずも口に発して自分の耳に響いた。

 彼は静かに立ってテーブルに向かい、整理すべき書類などを整理し始めた。豊でない取引商人へ送る筈の請求書などは、悉(ことごと)く焼き捨てた。彼の顔は異様に美しく輝いて居る。真に善心が内に満ちて、自ずから外に現れると言う者だろう。是が昔の戎瓦戎だとは恐らく、誰も信じることは出来ないだろう。彼は部屋の一方にある、小抽斗(ひきだし)から財布を出し、有り金を計算した。銀行に宛てて指図の様な書類をも認めた。もう為すべき仕事は為(し)てしまった。

 此の時夜の十二時の鐘が鳴った。彼は唯だ夜の寒さを感ずる外に、何の感じも無い。心がうっとりと鎮まって、自失したのだ。彼は夢中に歩む人の様に、暖炉の前に行き、燃え残る火に炭を加え、その前に身を置いた。眠るかと見れば眠るでも無い。余り心を疲れさせた反動が来たのだろう。物を考える力も無い。唯だ昏々として絶え入る様な状態で有ったが、この様な中にも、自分で自分の心が、次第に消えて行くのを感じた。是れでは成らないと、幾度か自ら励まして、遂に突然に驚き立った。

 「ハテな、何事を考えて居たのだろう。そうだ自首して出るに決したのだ。」
と呟いた。
 之れと共に又様々の事を考え廻したが、強く心に浮かんだのは華子の身の上である。
 「アア可哀想に。」
 嗚呼真に可哀想である。可哀想との此の一念が、又今までの一切の思案を破ってしまった。危うい哉(かな)。危うい哉。彼は全く局面の一変した様に感じた。イヤ自首する前に猶(ま)だ考えて見なければ成らない。

 待てよ。待てよ。自首して我が魂を清くするというのも、生まれ替わった人間に成るというのも、矢張り我が一身の為では有るまいか。自分と言う一身はそれで気が済むとしても、他人の身の上は何うだろう。自分の外に他人の身をも考えなければ成らない。
 結局此の土地の魂が消えるのだ。土地の魂が消えるのだ。今までの我が工業で富んだ人も、再び貧しい境遇に陥るのは無論の事。私が去ると共に、土地総体に、貧苦と窮厄(きゅうやく)《生活が行き詰まること》とが押し寄せて来る。

 土地が再び堕落する。アア唯自分の一身を清くしたいが為に、こうも多くの人の難儀と為るのを、知らぬ顔で見過ごして成る者か。若しも自分が、今ここで自首の心を翻(ひるが)えし、自分の身は永久に滅びようと堕落しようと、何の様でも好いとして、今から十年の間、市長の職を勤め続けたなら、何うで有ろう。千万圓の財産は容易に出来る。その千万圓を以て慈善の道に費やせば、恩に浴する人は、何れ程と言う数が知れない。

 土地は益々繁昌する。工場も増し仕事も増え、幾千の家や家族が、富栄えて幸福を得る事も出来る。泥坊も盗を止め、詐欺師も詐欺を廃し、堕落に身を売る女も無ければ、身を持ち崩す少年も無く。風俗は厚くして人情も改まり、社会の少なからぬ部分が楽園の様になり、その影響は四方にも後世にも広がって無窮《果てしが無い》である。

 本当に世に対する功徳とは是である。何して此の鴻大《広大》な世の功徳が、自分一身の魂や心の為に捨てられよう。此の身は死して後、永久の火の中に投ぜられ、限り無き呵責(かしゃく)《厳しく責めさいなむ事》を受けても好い。此の世を救わなければならない。

 全く彼の心は翻(ひるが)えった。自首はしない。何所までも斑井市長で押し通さなければ成らない。現に天が此の身の為に、身代わりの人まで作り、この様にせよと示して居るのだ。是をするには、もう自分が昔戎瓦戎で有った事を、心の底から忘れなければ成らない。
 是で初めて男らしい領見が定まったと、彼は何だか嬉しい程に感じ、又も立って、小抽斗(ひきだし)の所に行き、小さい鍵を取り出して壁の隅に在る、秘密の押し入れの戸を開いた。

 此の中には彼が昔の記念として、あの出獄した時に着て居た、戎瓦戎の着物と杖と帽子と皮の袋とを納(しま)って有る。之が有っては戎瓦戎と言う事を思い出す種だから、先ず之を焼き捨てなければ成らない。彼は此の品々を、押し入れの中の箱の底から取り上げた。取り上げて良く見ると、流石に今昔の感に耐え兼ねてか、我知らず身が震えた。けれど彼はもう怯(ひる)まない。見るその目先に、又何か転がって落ちた物がある。是は銀貨だ。彼がダインの野原で、足に踏み付け奪った子供の物なんだ。

 彼は又身を震わせつつ、今度は暖炉(ストーブ)の火を眺めた。此の品々を焼き捨てるには、充分な火が燃えて居る。けれど何だか気が後(遅)れる。何(どう)も焼く程の勇気が出にくい。彼は三度部屋の中を見廻した。部屋には彼の此の振舞いを見張って居る物が有る。それは彌里耳僧正から与えられた、あの銀の燭台で有る。

 若し彼をして、到底その昔を忘れる事が出来無くしている者があるとすれば、それは昔着た着物や帽子などでは無く、此の燭台なんだ。彼は此の燭台に照らされて、何うして今思って居る様な事が出来よう。

 「先ず此の燭台を鋳潰して、只の地銀(じがね)の塊にしてしまわなければいけない。」
と彼は呟き、今まで取り上げた着物を放し、燭台の傍に歩み寄った。そうして先ずその一個を取り、その尖(さき)の一端を以て、暖炉の火を突き起こした。

 思え彼よ。此の燭台を焼き潰すのは、その良心をまで焼き尽くす者では無いか。


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