巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou28

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.28


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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十八 天国の悪魔、地獄の天人

 単に少しの間である。十分とも経たないうちに銀の燭台は鎔(とろ)けて固塊(かたまり)とは成ってしまうのだ。戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の記念は之で焼き尽くされてしまうとも、心に存する記憶は揉み潰す事が出来るだろうか。彼、斑井市長は出来ると信じて居る。たとえ出来ないとしても出来させなければ成らないのだ。

 之が危うい頂点である。燭台は彼の手に在る。火は暖炉に焔々と燃えて居る。誰も火と燭台との間を遮る物は無い。彼は決心した。もう危(あわ)やと叫ぶ暇も無い。此の時忽ち彼の耳に、呼ぶ様な声が聞こえた。
 「戎瓦戎。戎瓦戎。」
 声は何人が呼ぶのでも無い。只自分の心の中から発するのだ。彼は此の声を聞いて毛髪が逆立った。何者に呼ばれるとも、是ほど恐ろしくは感じない。彼は聞かない様にしようとする力も出ない。声は自ずから響き渡るのだ。

 「出来(でか)した。出来した。戎瓦戎、燭台を焼き尽くせ。彼の僧正の事をも忘れよ。そうして汝の身代わりに立って居る、馬十郎と言う老人を亡ぼしてしまえ。
 彼は自分の身に何の罪が有るのかも知らず、唯戎瓦戎と言う汝の名の為捕らえられ、裁判の言い渡しを受けて、生涯を苦痛と恐れの底に埋めるだろう。汝に取っては此の上も無い幸いではないか。この様にして、汝自身は善人として世を渡れ。市長の地位を失う勿れ。汝は誉をも得て栄もするだろう。身を富ませ人を富ませ、貧者に恵んで孤児を救い、世の恩人と尊(うやま)われるようにしなさい。

 汝はそれで正直なのだ。幸ひも有るだろう。歓びも有るだろう。汝がその歓びに酔い、その幸いに浮かんで、何不足無く栄え行く間に、牢の中には一人の罪も無い老人が、汝の名を負い、汝の赤い衣服を着け、汝の鐡鎖(くさり)を腰に纏(まと)って絶望し、悲鳴を上げるだろう。汝は之が快いか。きっと快いことだろう。嗚呼、汝よ。悪人よ。」

 市長の額(ひたい)には脂汗が玉を為した。彼は襲われた《夢で恐ろしいものに苦しめられた》様な眼で燭台を見詰めた。けれど心の中から叫び立てる声は、彼の耳に響いて止まない。
 「嗚呼汝、戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)よ。世間の人は異口同音に汝の功徳を褒め讃(たた)えるだろうが、唯独り、汝の外は何人にも聞こえない声が有って、絶えず汝の耳に来て、汝の罪を鳴らす《盛んに言い立てる》に違いない。

 良く聴け汝、此の世に施す汝の功徳は、如何ほど盛んだとしても、天に達せずして地に落ちるだろう。そうだ、久しからずして地に落ちるに違い無い。唯汝の罪を鳴らす、その一個の声のみは、天に登って神の耳にまで響くに違いない。汝は此の声を何の様にする積りだ。」

 一句は一句よりも高く聞こえる。只初めのうちだけは、自分の神経の為せる業だと思ったが、果ては部屋中に響く様に思われて、彼は我知らず戦慄(せんりつ)《恐れ震える》し、
 「そこに居るのは誰だ。」
と声を出して問うた。

 我が声さえも日頃の我が声で無い。全く物凄い響きを帯びて居る。けれど勿論部屋の中には誰も居る訳では無い。彼はそれと気が附いて又声を発し、今度は大胆な様に打ち笑った。自分で自分の恐ろしさを笑い消すのだ。
 「何だ馬鹿馬鹿しい。此の部屋に、俺の外に誰が居るものか。」
 イヤ誰も居ないのでは無い。確かに誰か居るのである。

 併しその人たるや、人間の目には見え無い。見え無いと言っても、見える人よりは恐るべしだ。彼を金縛りに縛るのだ。彼は燭台を持ち直して、元の棚の上に置いた。そうして力無さそうに部屋の中を歩み初めた。幽霊が歩むのが、多分は此の様な様子だろう。足が地に附いて居るやら居ないやら分から無い。

 嗚呼、悲しい哉、彼は再び不決定、無決心に立ち返った。自首して出ようか。自首せずに今の決心を押し通そうか。彼の心は、最初此の部屋に閉籠った時の通りに、迷い且つ乱れて居る。
一歩も進んだ所が無い。彼は徒に煩悶《悩み苦しみ》し懊悩(おうのう)《悶え苦しむ》するのみである。

 この様にして、午前の三時まで部屋の中を歩んだ。けれど決心には至らずして、唯だ神経の昏乱《状態や心が乱れる》するのみである。善人と為るには、地獄にも等しい牢の底に沈まなければ成らない。此の世の天国を支えるには、心を罪に固めなければ成らない。地獄の底の天人か、天国に棲む悪魔か、初めの中には、我が身代わりの出来たのが、天の救いの様に思われたのに、今はその身代わりの有る為に、此の身は地獄の底に落ちなければ成らない。

 何でその様な身代わりなどが現れただろう。是が全くの運の尽きと言う者か。どうして運命は、私にばかり此の様に辛く廻って来るのだろう。それも若い身空なら兎も角も、此の年に成って再び暗い牢の底に、棘(いばら)の莚(むしろ)、鞭(しもと)《むち》の雨、到底耐えられる所で無い。今の地位、今の命は、唯だ一人の何所の馬の骨とも分からぬ者の為に、惜し気無く投げ棄てようと思って、作ったものではない。何して是が決断できるだろう。それを決断しなければ成らない様な境遇に立たされる運命が無理だ。非道だ。恨んでも恨み尽くせない。

 彼は終に疲れ果てた。歩み止(や)んで椅子に靠(もた)れた。眠るとも無く眠り込んだ。夢に入ってまでも、様々の恐ろしい事に攻められた。そうして夜の空気の寒さにフト目を覚まして見ると、金をも鎔(とろ)かすばかりに燃えて居た暖炉(ストーブ)の火は、早や灰に蔽(おお)われ、蝋燭(ろうそく)も燃えて僅かに残って居る。もう何時だろう。早や五時である。

 閉じることさえ忘れて有った窓の戸が、暁風に煽られて居る。彼れは之を閉じる為に窓に行った。永い冬の夜の、五時とは言えど、未だ空は明け放って居ない。天は曇って星の影さえ見えない。けれど此の時、戸表(おもて)の方に、何やら異様な物音がする様に聞こえた。彼はまだ半ば夢の心地で首を差し延べて下を見た。

 見ると何だか星の様な光が二点(ふたつ)、地の表に輝いて揺(うご)いて居る。是は昨日の夕方に彼が必ず朝の五時までに我が門口へ廻して置けと注文したその馬車で、光るのは馬車の硝燈ランプ)である。けれど彼はそれを知らない。全くその事を打ち忘れて居る。彼は呟いた。
 「アア天には星の光が無くて、却って地の上にそれが有るのだ。」

 偶然の言葉とは言え、天国の悪魔、地獄の天人と言う今の境遇に当たるのでは無いだろうか。呟(つぶや)く内にひずめの音が、愈々明らかに聞こえた。彼は初めて馬車の来たのを知った。併し未だ、自分が注文した事は思い出さない。
 「ハテな、此の暗いのに、何者が馬車などに乗るのだろう。」
と独語する折しも、下から誰か上って来て、此の部屋の入口を叩いた。

  「旦那様、旦那様」
  訪(おとな)うのは、兼ねて雇ってある老女の声だ。
 市長「何事だ。」
 老女「馬車が参りました。」
 市長「馬車が、何の為に。」
 老女「昨日貴方がお命じ成ったと申しまして。」
 「昨日私がその様な馬車などを。イヤ命じた覚えは少しも無いが。」
と言おうとして、忽ち脳の中に稲妻の差し込んだ様に思い出した。

 恐ろしい現在の位置が、一時に悉(ことごと)く彼の心に浮かんで出た。彼は何と返事すべきかを知らない。
 老女は返事の無いのを怪しみ、
 「何と申してやりましょう。」
 相変わらず返事が無い。暫く待って、
 「何かの間違いでしょうか。」

 市長「イヤ間違いで無い。直ぐに私が降りて行くから待たせて置け。」
 直ぐに行くと言って、未だ思案が定まって居ない。
 此の朝、此の町へ入り込んだ一番の郵便馬車が、町の入口で一輌の軽い小馬車と衝突した。小馬車は何所か傷んだらしい。けれどその中に唯一人外套に纏(くるま)って乗って居る其の主人は、余ほど急ぎの用事と見え、殆んど衝突には気も附かないかの様に、走らせ去った。

 郵便馬車の馭者は驚いた。
 「何だってあの様に急ぐだろう。」
 勿論此の馬車の主人は斑井市長で有った。彼れは何の様な思案を以て、何所を指して行ったのだろう。

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