aamujyou29
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
二十九 運命の手
市長は何処へ行くのだろう。小馬車は矢の如く飛んで居る。
彼はアラスを指して行くのだ。アラスの裁判所には、彼の身代わりに立った不幸の男が、公判に附せられて居る。今日中に宣告せられるのだ。宣告は無論終身刑なんだ。
此の者を救う為か。救うには裁判所へ出て自分が誠に戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)だと自首しなければ成らない。
彼は昨夜から悩み苦しんだ結果、終に自首すると言う事に決心したのか知らん。イヤ必ずしも決心したと言うのでは無い。唯だ何か無しにアラスの裁判所まで行って見度いのだ。行った上で裁判を傍聴し、我が身代わり立った馬十郎とやら言う老人の顔をも知り、裁判の様子を見なければ気が済まないのだ。宛も夏虫が火の光に引かれる如く、我にも有らで身の危険へ引き附けられるのだ。
人の身の上には、全く思案に余る様な大難題が有る。彼の現在が即ちそれなんだ。此の世の天国に居て悪魔と為るか、牢と言う生きながらの地獄に落ちて、天人と為るか。幾等思案しても思案は附かない。けれどアラスへも行かずに、知らない顔で済まして居る事は出来ない。兎も角もアラスへ行き度い。行けば行く道で、何とか思案が附くだろう。或いは傍聴して居る中に、誰か善い智慧を授けて呉れるかも知れないと、此の様な頼みにも成らない事が、彼の頼みだ。
もう此の様な頼みの外に、自分の判断力は無い。真に傷々(いたいた)しいほど、憐れむべき有様とは成って居る。
朝の凡そ八時頃に彼はヘスヂンと言う駅に着いた。二時間余りに七里ほど馳せたのだ。馬は流石に馬車屋が受けけ合った丈あって、未だ汗もかかない。けれど秣(まぐさ)でも与えなければと、但有(とあ)る宿屋の前に留まり、店先に居る馬丁を呼んだ。馬丁は指図を聞き、烏麦(からすむぎ)を持って来て馬に与えつつ、フト怪しむ様に俯向(うつむい)て車を見、眉を顰(しか)めて、
「旦那は此の車で遠くから来(い)らしったか。」
と問い掛けた。
市長「七里ほど馳せて来た。」
馬丁は、
「エ、エ」
と言って驚いた。
市長「何をその様に驚くのだ。」
馬丁「車の輻(や)が二本折れていて、心棒も曲がって居ます。良く無事に来られました。もう一里とは行かれません。」
扨(さ)ては今朝郵便馬車と衝突したときに毀れたのだ。
市長「オヤそれは困ったなア。何所かに馬車を直す者は無かろうか。」
馬丁「丁度隣が馬車屋です。その主人を呼びましょう。」
と言って直ぐに主人を呼んで来た。市長は之に向かい、
「直ぐに此の馬車を修繕する事が出来るだろうか。」
馬車屋は損所を検めて、
「今日一日掛ければ出来ます。」
一日かかってはアラスの裁判に間に合わない。
市長「其れでは困る。もっと早く。」
馬車屋「一日より早くは出来ません。」
市長「大勢の職人を掛ければ。」
馬車屋「幾人掛けてもです。」
市長「では之に代わる馬車は無いだろうか。」
馬車屋「有った所で、旦那の様な乱暴な乗り手に貸すのは真っ平です。」
市長「イヤ、有れば、借りるのでは無い。買い取るのだ。」
馬車屋「それでも出来合いは無いのです。」
市長は気を燥(いら)立たせた。彼の問いは、後から後からと矢を継ぐ様に口から出た。
「お前の家に無くとも、何所かに出来合いが有るだろう。」
馬車屋「有りません。」
市長「形は何の様なのでも好い。」
馬「有りません。」
市「古いのでも好いが。」
馬「それも有りません。」
市「誰か一個人の持って居るのでも譲って貰い度い。」
馬「此の土地にはその様な人も無いのです。」
市「対価は幾等でも出すのだから。」
馬「何うも、無い者は致し方が無いのです。」
市「何の様に捜しても。」
馬「ハイ何の様に捜したとて。」
市「では到底、今日の中に旅を続ける事は出来ないだろうか。」
馬「ハイ何と致しましても。」
市長は是だけ聞いて心の重荷を卸した様に感じた。馬車を損じて、到底今日中にアラスへ着く事が出来ないとは、是は天が我が身を遮(さへぎ)る者では無いだろうか。私は何としてもアラスへ着く積りだのに、天が許さない。天が此の馬車の輻(や)を折った。天が私を引き留めるのだ。私に自首を許さないのだ。
今日一日を此の土地に留まれば、裁判は済んでしまい、私の身代わりと為ってしまって、私は市長のままで勤続する外は無いのだ。何も私の所為では無く、天の所為なのだ。責任は天に在るのだ。市長は何だか天に謝し度い気に成って、仕方が無いから、一日を此の土地に留まり、そうして馬車を直させると言う気に成った。彼の身代わりに立って居る不幸な男は、可哀想に全く天から見捨てられたのだ。
もう何としても仕方が無い。市長の自首は罷(や)み、裁判は確定する。是が天の配剤と言う者なら、何だか人間の腑に落ち難い配剤の様にも思われる。けれど、市長の腑には落ちた。
若し此の事が人通りの無い野原ででも在ったのなら、是きりで終わっただろうが、ここは宿場だから、市長と馬車屋との問答の間に多勢(おおぜい)の人が立った。
その中に居た一人の小僧が、市長の熱心な様子を見、それに、
「代価は幾等でも払うから」
と言った言葉を聞き、何か思い附いた事の有る様子で立ち去ったが、やがて市長が天の配剤と見極め附けて、やおら馬車から降りようとする所へ、一人の老婆を連れて帰って来た。老婆は市長に向かい、
「只今此の小僧から聞きますれば、貴方は馬車をお求め成さると言う事ですが、本当で御座いましょうか。」
此の問いを聞いで、市長の額に汗が出た。ヤッと自分を放って呉れた恐ろしい運命の手が、又も後から己れを捕らえに来たのでは無いだろうか。彼は答えた。
「馬車を買おうと思ったけれど、此の土地には何処を捜しても売る馬車が無いのだから、止めました。」
老婆「イイエ、私共に、丁度お売り申して好い、不用の馬車が有りますよ。」
愈々運命の手が再び市長の背(せな)に達(とど)いた。
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