巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou3

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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  噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 

     三  高僧と前科者

 覗(のぞ)いて見ると、確かに幸福な家庭らしい。主人(あるじ)と見える四十恰好の莞爾(にこやか)な男が、膝に児を抱き、前面には妻と見える若い女が、之も児を抱いて乳を呑ませて居る。此の一同の機嫌の好い様子を見ると、きっと人情味の有る家族らしい。ここならばと旅人は近寄って戸を叩いた。二度叩いて三度目に主人が窓まで立って来て、
 『何方(どなた)』
と問うた。

 旅人「御免下さい。行き暮れて困っている旅の者ですが、何うかお情けに一夜の宿を。庭の隅でも何所でも宜しいのですから。」
 主人「大通りに行けばコルパスと言う宿屋が有るのに。」
 旅人「ハイ、其所へ行ったけれど断られまして。」
 主人「ではシャフヲー街に安宿が有る。」
 旅人「イエ、其の安宿でも断られて来たのです。」

 此の返事に主人は何か心付いた様に、急に旅人の風体を見直した。勿論怪しそうな身姿(みなり)だから驚いて、
 『ヤ、ヤ、此の人が先刻聞いた彼(あ)の人だよ。』
と叫んだ。扨(さ)ては油断の成らない前科者と言う噂が、早や此の静かな家まで伝わって居るのだ。主人の叫びに妻も合点が行ったと見え、遽(あわ)てて子供を確(しか)と抱き〆め、
 『早く追払(おっぱらっ)て下さいよ。』
と恐ろしそうな声を立てた。

 『去れ、去れ、野良猫奴』
と主人は言い捨てた。
 旅人「では後生ですから水を一杯お飲ませ下さい。」
 主人は床の間に在る猟銃を見返りつつ、
 『水よりは弾丸を振舞って遣(や)ろう。』
と言って戸を閉じた。

 何処へ頼っても同じ事である。泊めて呉れる家は到底無い。又も旅人はここを去ったが、寒さと空腹と交(かわる)がわる身を攻める。切めては一方だけでも逃れ度いと、更に見回し見回して、少し行くと、或家の庭に低い仮り小屋の様な者が有る。多分は土方か何かが道具でも入れて置く為に作って有るのだろう。此の中で一夜を明かせば風と霜の寒さ丈は凌(しの)がれると、直ちに生垣を飛び越えて中に入った。

 小屋の入口は意外に小さい。けれど彼は潜り込んだだが、背(せな)の袋が邪魔に成るから、向き直して下ろそうとすると、入り口の外で唸(うな)る様な声が聞こえた。顔を上げると巨(でか)い番犬の頭が我が頭の辺へ押し掛けて居る。アア此の小屋は犬小屋なんだ。グズグズすれば何の様な目に遭(あ)うかも知れない。直ぐに彼は杖を正眼に構えて犬を防ぎ、真に這々(はうはう)の体で逃げ出した。

 愈々(いよい)よもう行く所が無い。アア犬でさえ小屋が有るのに、
 『俺(おれ)は犬にも劣るのだ。』
と呟(つ)ぶやいたが、此の上は野か山で木陰をを頼むしか方法が無い。又もよろめいて足を引き摺(ず)り、今度は町の外へ出た。此の時、日は既に暮れ果てて、空も薄曇り、唯月の出ようとする山の端のみ幾等か明るいかと思われる。真の夜半(よなか)より、却(かえ)って心細く気味が悪い時刻である。

 町を外れて少し行くと横手に丘が有り、丘には樹も茂って居る様に暗く見える。彼はその方を眺めたが、身震いした。真逆(まさか)に暗闇を恐ろしと思う様な境涯では無いだろうけれど、景色が総て恐ろしく感じられる場合が有る。こうなると人のみで無く、天然までも薄情なのだ。

 彼はもう気力が無い。又引き返して町に戻った。そうして又も彷徨(さまよ)い歩むうち、教会堂の前に出た。此の様な身に取っては神も仏も有った者か。教会堂などとこの様な者が立って居ることさえ癪にさわる。彼は拳を固め、その屋根の方を睨み、叩き附ける様な身真似をした。実に無理もない仕打ちである。

 それから又、歩もうとしたけれど、足が利かない。少し離れた空き地の様な所に、腰を掛けるのに丁度好い石が有った。彼はその上に腰を卸(おろ)した。胴から上を横にした。全く疲れ尽くした様子である。
 丁度此の所へ、教会堂から一人の老婦人が出て来た。暗い所に彼が横たわって居る姿を見留め、怪しんで傍へ寄り、

 「オヤ、此の人は先ア、何をして居るの。」
と問うた。 
 彼「見られる通りです。寝るのです。」
 婦人は流石に教会から出るほどだけ有って、憐みの心が深いと見え、
 『エ、石の床に。』
 彼は自分の身を嘲(あざけ)って、『ハイ十九年の間、冷たい木の床に寝て来ました。今夜は石の床に有り附きました。』
 何と言う無残な言葉だろう。

 婦人「では兵隊で有ったの。」
 彼はその口に従って、
 「ハイ兵隊でした。」
 婦人「宿屋を尋ねれば好いのに。」
 彼はもう、宿屋で追い払われた白状はしない。

 単に
 「銭が有りません。」
 婦人は財布を探り、
 「オヤ、何うしたら好いだろう。唯(た)った四銭しか持って居無いが。」
  彼「四銭でも好い、下さい。」
 と言って受け取った。世間がもう、皆我に薄情だと思っているので、この様な心にも成るのだ。

 婦人「だって是れ許かりでは何うする事も出来ない。きっとお腹(なか)も空いて居よう。寒くも有ろう。何所か一夜の宿を恵んで呉れる家が有りそうなもの。」
 彼「有りません。」
 婦人「乞うて見たの。」
 彼「ハイ、留めて呉れるだろうと思う家は一軒残らず。そうして皆断られてしまいました。」

 婦人は暫(しば)し思案の様子で四辺(あたり)を見回し、やがて思い浮かんだ様に、此の空き地の隅に当たる屋根の低い家を見やって、
 「あの家へも願って見たの。」
 彼「あの家ですか。イイエ未だ。」
 婦人「では願ってお見な。」

 言葉に従って、指された家の戸を叩いた。中から直ぐに、
 「お入り成さい。」
との心好(ここちよ)い返事が聞こえた。この家は抑(そもそ)も誰の家だろう。
 篤行(とくこう)《人情の厚い行い》並び無しと称せられる、彌里耳(みりえる)僧正の邸(やしき)である。

 アア高僧と此の前科者、何の様な出会いになるだろう。


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