巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou36

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   三十六   傍聴席 四

 人の心の根底(どんぞこ)には不思議な力が籠って居る。それは「善」である。是が即ち「魂」と言う者なんだろう。
 根底に『善』の力の無い人は、本当の悪人だ。魂までも腐って居るのだ。斑井市長は何方(どっち)で有ろう。彼は曾て『魂を入れ替えよ。』
と聖僧に説き諭された。自分でもその気に成った。真に魂を入れ替えた。
 昔の戎瓦戎なら、どうだか分からないが、今の斑井市長なら、真逆(まさか)に、心の底の善の力に勝つ事は出来ない。

 彼は二十四時間、様々に考えて居たけれど、遂に愈々(いよいよ)馬十郎が、自分の身代わりになってしまうと言う、最後の場合に至り、最早や知らない顔で見過ごすことが出来無くなった。心の底から、自分より強い力が突然湧いて来て、殆んど我知らずに立ち上がり、我知らずに叫んで、我知らずに証人等の名を呼び、
 『ここを見よ。此の顔を見よ。』
と言った。

 こうなってはもう彼は、戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)では無い、斑井市長でも無い。善の化身だ。善その者だ。
 何という彼の声の神々として物凄いこと。何という彼の姿の超然として、人間と異なることか。吁(ああ)彼の頭は、霜より白い白髪のみと為って居る。今朝モントリウルを出発する時には多少の白髪は混じって居ても、大体は黒い髪で有ったのに、心の中の苦しみは、少しの間に彼の毛の色を奪ってしまった。良く昔から言う事だ。一夜の中に白髪になると。彼は実にその一例だ。顔は人間を離れて青く、頭は鶴の毛の様に白い。そうして手には帽子を脱いで持ち、首を前に突き出して立って居る。

 満場の人は只だ彼の方に振り向いた。けれど未だ此の神々しい此の物凄い此の白頭の一紳士が、今の声を発したのかと怪しむ人も有り、又怪しまない人でも、何と無く此の人の大決心に打たれた状態で、一語の囁き声をも発する事が出来ない。真に身を忘れる迄の大決心は、人を唖の様にする力が有る。判事長とても、検事とても、未だ何の事だか合点が行かず、何とするか分別も定まらない。空しく目と目を見合わすのみだ。

 その間に、斑井市長は、徐(おもむろ)に、自分の席から離れ、彼の三証人の控えて居る被告席の傍に降りて行った。誰も彼を遮る者が無い。猛獣の前に、枯草が自ずから開く様に道が開いた。殆ど憲兵さえも呆気に取られて居る。彼は裁判官の正面、陪審官の前、被告と証人のとの傍に立って、証人三人に向かって言った。

 「貴方がたは、此の戎瓦戎の顔を忘れましたか。」
 三人は気を呑まれて居る。何とも言わずに唯首を動かした。無論見知らぬとの意味が、その動かし方に現れて居る。その中の一人、古シエベルの如きは、軍隊でする様な最敬礼の姿をした。市長は続いて裁判官と陪審員とに向かい、

 「陪審員諸君よ。裁判官閣下よ。此れなる被告を放免して、何うか私をお縛り下さい。貴方がたの求めているのは、此の被告では有りません。私です。私が誠の戎瓦戎です。」
 法廷の静けさは、呼吸する人さえ無いのかと疑われるほどである。万人一様に此の斑井市長の、此の誠の戎瓦戎の、崇高な行いに圧せられた様だ。天然の景色にも崇高な景色が有る。絵画にも崇高がある。人は真の崇高に接しては、物を言う事も出来ない。胸も迫って声も出ない。唯感に打たれるのだ。人間の行いで真に崇高と言うべきは、戎瓦戎の此の行いの様な事だろう。

 漸くにして判事長の顔色は先ず動き始めた。彼は裁判と言う重い職責に対しても、何とか云わない訳には行かぬ。彼は戎瓦戎の顔をつくづく見た。彼は怒るべき筈である。そうして叱り附けるべき筈である。けれど彼の顔には、怒りの色でなく、深い深い憫(あわれ)みの色が動いた。彼は更に同席判事の顔を見、最後に傍聴者一同に向かって、柔らかに、
 「若し傍聴席に、医師のお方は有りませんか。」
と問うた。

 アア彼は、斑井市長が発狂したのだと認めて居る。勿論彼の地位として、此の場合にこの様に認めるより外に、認め方が無い。直ぐに検事も立ち上がって、
 「陪審員諸君、私は計らぬ事故の為め、法廷が事務の進行を妨げられた事を悲しみます。然れども諸君は、今ここに現れた此の方が、斑井市長だと言う事を御存知でしょう。斑井市長を知らずとも市長の徳行名望は兼ねてお聞き及びの事でしょう。

 法廷を妨げる者には、其々(それぞれ)の処分が有りますけれど、此の不幸な紳士、自分で自ずから何事を為しつつ有るのかを感じ得ずして、この様な過ちに陥る不幸な紳士を、私は通常の場合と同一視するに忍びません。判事閣下と同じく、私も切に望みます。若し傍聴席に医師が居合わせば、然るべく此の不幸な紳士に手当して、その旅館に送り届けるまで、力を貸して頂き度いのです。」

 全く検事も、発狂と認める外は無いと見える。けれど戎瓦戎は、此の言葉をも遮った。皆までは言わさずに彼は言った。私は深く方々の厚意を謝します。けれど此の斑井市長、イヤ此の戎瓦戎は、発狂して居るのでは有りません。医師のお手当に及びません。篤(とく)と私の言う所をお聞き下さらば、発狂で無いことが分かります。」

 彼の声は先程より落ち着いて居る。けれど先程よりも力がある。





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