巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou39

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   三十九   市長の就縛(じゅばく)二

 「おや小雪は」
との一言(いちごん)は、疑って問うのでは無い。信じて問うのだ。故々(わざわざ)市長が小雪を連れて来る為に、旅行したのだもの、連れて来て居ない筈は無い。確かに連れて来たのだから、もうここへ現れる筈だがと、華子は有難く思って促すのだ。
 疑がって問われるよりも、信じて問われるのが辛い。市長は返す言葉も出ない。華子は嬉しさに耐えられない様に、淋しい顔に満面の笑みを浮かべ、

 「本当に貴方は御親切です。昨夜私は貴方の事ばかり夢に見ました。貴方の行く先々が、目に見える様な気がしました。貴方の昨夜成さった事は、此の上も無い功徳です。神がお褒めに成りますよ。確かに貴方の頭の上に、後光が射して居りました。ハイ私は此の目で見ましたよ。」
 妙に言葉が、昨夜アラスの裁判所で、自首した一条を指す様にも聞こえる。是は無論偶然である。華子は更に嬉しさに夢中の状態で言葉を続け、

 「早く小雪をここへ呼び入れて下さいな。何故私に抱かせては下されません。」
 もう七歳の子だから、懐へ入れる事は出来ないけれど、母の心は矢張り、自分が分かれた時の通りの様な気がして居る。斑井市長は愈々(いよいよ)返事に困って居たが、丁度此所へ医師が廻って来た。
 医師は一目で様子を見て取り、直ぐに市長の当惑を救った。

 「イヤ華子さん。貴女の容体が、ズッと落ち着かなけば、小雪をここへ連れて来る事は出来ません。」
 華子「では小雪はもうここへ来て居るのですか。」
 医師「ハイ」
 華子「来て居るなら、唯だ一目で好いのです。何で唯だ一目見せるのさえ悪いのです。」

 医師「ソレその通り、貴女は気が立って居るのですから、ここで小雪の顔を見れば、又心が騒ぎ出し、容易に熱が退(ひ)かない事に成ります。何しろ熱が下がらない事には、決して小雪に逢わせる事は出来ません。ハイ私が許しません。それだから貴女は、何でも心を落ち着けて、何事をも思わずに、御自分で先ず熱を下げなければ成らないのです。」
 華子は二言三言争ったけれど、頑として動かない医師の言葉に、終に我を折り、

 「では心を落ち着けます。貴方の言う通りに、良く養生して熱も引く様に致しますから、何うぞ小雪を見せて下さい。」
 医師「ハイ私が見て、是なら大丈夫と思う時さえ来れば、直ぐに小雪を抱かせてあげます。」
と最もらしく難場を切り抜け、更に一応の診察をして、看護婦長に然るべく指図を残して立ち去った。

 後に華子は市長に向かい、小雪の事を様々に問い廻した。
 「小雪は何の様な着物を着て居ました。」、「何の様に養われて居ましたか。」「連れて来る道々で風でも引きはしませんでしたか。」、「まだ私の事を良く覚えて居ましたか。」
など、それからそれと、殆ど止め度も無い程に見えたが、此の時、病院の庭を過ぎる何所かの子供の、歌を歌う声が聞こえた。華子は懐かしそうに、

 「オオあれは小雪の声です。私くしの耳には確かに聞き覚えが有りますよ。」
 市長「貴女はその様に声を出してはいけません。益々咳が募りますから。」
 全くの所、華子は自分の一語一語に、咳込む程の有様である。当人よりも聞く身が辛い。
 けれど華子は更に声を止(とど)めない。咳込んでは語り、語りては又咳込み、或時は此のまま絶え入りはしないかと、気遣われる程であったが、その間に市長は絶えず何事をか考え込み、華子の顔を見るよりも、眼を垂れて床を眺める場合が多かった。

 真に彼は、降り積もる身の難儀を考えて見ると。何から何う処分して好いか分からないだろう。上部(うわべ)には何事をも現さない様に勉めては居ても、自ずから心の沈み込むのは無理も無い。
 真に彼れの心の底は、千々に乱れて居るのだろう。彼は且つ聞き且つ思って、華子の言葉に、一々は返事をする事が出来ない状態とは為ったが、此の時忽(たちま)ち、何の為だか知らないけれど、華子が恐ろしさに、耐えられないかの様に絶叫した。

 病み果てた体に、何うして是ほどの声が残っていただろう。のみならず華子の身は、今まで寝返りさえする事が出来ない程で有ったのに、叫ぶと共に半ば起き上がって、
 「アレ、アレ」
と戸口の方に指さした。何を此の様に驚き恐れるのだろう。市長は静かに
 「華子さん、何事です。」
 華子は更に戸口を眺めるばかりだ。

 戸口は市長の背後に当たって居る。市長は怪しみながら、徐(おもむろ)に背後に振り向いたが、驚きの元は分かった。巡査長蛇兵太が、戸を開いて入って来て、今や市長の背後に立ち、市長の姿を睨んで居る。
 何の為ぞと問う迄も無い。市長は知り過ぎるほどに良く知って居る。我が身を捕縛する為に来たのだ。

 それを華子は、何かの理由で、自分を引き立てにでも来た事と思い、それが為に驚き恐れるのだ。けれど華子だけでは無い。此の時の蛇兵太の顔、蛇兵太の姿を見る者は、誰ても驚き恐れずには居られない。
 覚悟して居る市長さえも戦慄した。




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