巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou39

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.5.9


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   三十九   市長の就縛(じゅばく)二

 「おや小雪は」
との一言(いちごん)は、疑って問うのでは無い。信じて問うのだ。故々(わざわざ)市長が小雪を連れて来る為に、旅行したのだもの、連れて来て居ない筈は無い。確かに連れて来たのだから、もうここへ現れる筈だがと、華子は有難く思って促すのだ。
 疑がって問われるよりも、信じて問われるのが辛い。市長は返す言葉も出ない。華子は嬉しさに耐えられない様に、淋しい顔に満面の笑みを浮かべ、

 「本当に貴方は御親切です。昨夜私は貴方の事ばかり夢に見ました。貴方の行く先々が、目に見える様な気がしました。貴方の昨夜成さった事は、此の上も無い功徳です。神がお褒めに成りますよ。確かに貴方の頭の上に、後光が射して居りました。ハイ私は此の目で見ましたよ。」
 妙に言葉が、昨夜アラスの裁判所で、自首した一条を指す様にも聞こえる。是は無論偶然である。華子は更に嬉しさに夢中の状態で言葉を続け、

 「早く小雪をここへ呼び入れて下さいな。何故私に抱かせては下されません。」
 もう七歳の子だから、懐へ入れる事は出来ないけれど、母の心は矢張り、自分が分かれた時の通りの様な気がして居る。斑井市長は愈々(いよいよ)返事に困って居たが、丁度此所へ医師が廻って来た。
 医師は一目で様子を見て取り、直ぐに市長の当惑を救った。

 「イヤ華子さん。貴女の容体が、ズッと落ち着かなけば、小雪をここへ連れて来る事は出来ません。」
 華子「では小雪はもうここへ来て居るのですか。」
 医師「ハイ」
 華子「来て居るなら、唯だ一目で好いのです。何で唯だ一目見せるのさえ悪いのです。」

 医師「ソレその通り、貴女は気が立って居るのですから、ここで小雪の顔を見れば、又心が騒ぎ出し、容易に熱が退(ひ)かない事に成ります。何しろ熱が下がらない事には、決して小雪に逢わせる事は出来ません。ハイ私が許しません。それだから貴女は、何でも心を落ち着けて、何事をも思わずに、御自分で先ず熱を下げなければ成らないのです。」
 華子は二言三言争ったけれど、頑として動かない医師の言葉に、終に我を折り、

 「では心を落ち着けます。貴方の言う通りに、良く養生して熱も引く様に致しますから、何うぞ小雪を見せて下さい。」
 医師「ハイ私が見て、是なら大丈夫と思う時さえ来れば、直ぐに小雪を抱かせてあげます。」
と最もらしく難場を切り抜け、更に一応の診察をして、看護婦長に然るべく指図を残して立ち去った。

 後に華子は市長に向かい、小雪の事を様々に問い廻した。
 「小雪は何の様な着物を着て居ました。」、「何の様に養われて居ましたか。」「連れて来る道々で風でも引きはしませんでしたか。」、「まだ私の事を良く覚えて居ましたか。」
など、それからそれと、殆ど止め度も無い程に見えたが、此の時、病院の庭を過ぎる何所かの子供の、歌を歌う声が聞こえた。華子は懐かしそうに、

 「オオあれは小雪の声です。私くしの耳には確かに聞き覚えが有りますよ。」
 市長「貴女はその様に声を出してはいけません。益々咳が募りますから。」
 全くの所、華子は自分の一語一語に、咳込む程の有様である。当人よりも聞く身が辛い。
 けれど華子は更に声を止(とど)めない。咳込んでは語り、語りては又咳込み、或時は此のまま絶え入りはしないかと、気遣われる程であったが、その間に市長は絶えず何事をか考え込み、華子の顔を見るよりも、眼を垂れて床を眺める場合が多かった。

 真に彼は、降り積もる身の難儀を考えて見ると。何から何う処分して好いか分からないだろう。上部(うわべ)には何事をも現さない様に勉めては居ても、自ずから心の沈み込むのは無理も無い。
 真に彼れの心の底は、千々に乱れて居るのだろう。彼は且つ聞き且つ思って、華子の言葉に、一々は返事をする事が出来ない状態とは為ったが、此の時忽(たちま)ち、何の為だか知らないけれど、華子が恐ろしさに、耐えられないかの様に絶叫した。

 病み果てた体に、何うして是ほどの声が残っていただろう。のみならず華子の身は、今まで寝返りさえする事が出来ない程で有ったのに、叫ぶと共に半ば起き上がって、
 「アレ、アレ」
と戸口の方に指さした。何を此の様に驚き恐れるのだろう。市長は静かに
 「華子さん、何事です。」
 華子は更に戸口を眺めるばかりだ。

 戸口は市長の背後に当たって居る。市長は怪しみながら、徐(おもむろ)に背後に振り向いたが、驚きの元は分かった。巡査長蛇兵太が、戸を開いて入って来て、今や市長の背後に立ち、市長の姿を睨んで居る。
 何の為ぞと問う迄も無い。市長は知り過ぎるほどに良く知って居る。我が身を捕縛する為に来たのだ。

 それを華子は、何かの理由で、自分を引き立てにでも来た事と思い、それが為に驚き恐れるのだ。けれど華子だけでは無い。此の時の蛇兵太の顔、蛇兵太の姿を見る者は、誰ても驚き恐れずには居られない。
 覚悟して居る市長さえも戦慄した。




次(四十)へ

a:34 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花