巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十   市長の就縛(じゅばく)三

 華子は蛇兵太の姿を見て、全く自分を引き立てに来たのだと信じた。驚き恐れたのは当然である。
 彼女は叫んだ。
 「市長さん、市長さん、何うか私を助けて下さい。」
 全く市長の助けを請う外は無い。市長は静かに傷(いた)わって、
 「ナニその様に恐れる事は有りません。蛇兵太が来たのは、貴女の為では無いのです。」

 こう言う市長の為なんだ。
 市長は更に蛇兵太に向かい、
 「貴方の御用向きは良く分って居ます。」
 蛇兵太は大喝一声、
 「神妙に」
との叱咤を以て之に答えた。
 その言葉は雷の様に部屋中を震わせた。

 真に蛇兵太はその頑迷な心を以って、今は此の市長を終天の敵の様に思って居る。過ぎ去った五年の間、彼は此の市長を疑って、何れほど苦心したか知れない。その末に、自分の疑いが過ちだと信じて、直接に市長に対して罪を謝した。抑(そもそ)も罪を謝すると言う事が、此の蛇兵太に取っては千年の遺恨にも当たるものである。

 単にその職務の上に、少しの落ち度や怠慢が有ってさえ、自ら己れの身を許さない程の厳重な男だから、市長を疑ったその過ちの為に、辞職する決心をまで起こしたのである。それが今に至って、過ちで無かったと分かり、自分が捕縛に向かう役廻りとは為ったので、彼は千載の一遇とも言うべき程に思い、今までの恨みを悉く、之で晴らす気に成って居る。

 彼は部屋の真ん中に大山の如く衝立(つった)ち、市長の顔を睨み詰めて、貧乏ゆすりもしない。  
 そうして再び叫んだ。
 「サア、早く立って来い。」
 勿論市長に向かって吐くべき言葉で無いから、益々華子は自分の事と思い、
 「市長さん、市長さん」
とて泣き声を上げたが、その中に蛇兵太は、市長の首筋を捕らえて、容赦も無く引き立てた。

 市長は抵抗もせず、引き立てられて、力無く首を垂れた。蛇兵太は心地好さそうに嘲笑(あざわら)って、
 「何だ市長さんだと、市長などと言う者はここには居ない。」
 もう無論市長では無い。単に一個の戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)だ。前科者だ。記者も之からは再び彼を戎瓦戎とのみ記さなければ成らない。

 漸くにして戎瓦戎は、願う様な声で、
 「コレ蛇兵太」
と言い掛けた。
 蛇「蛇兵太では無い。巡査部長様と言わなければ。」
 戎は敢えて言葉などを争わない。
  「部長様、貴方へ内密のお願いが有ります故ーーー。」
 蛇「何だ内密、イヤ内密などは許されない。声高く申し述べよ。」
 戎「貴方の外は、誰の耳にも入れられない事柄ですから、何うか内密に。」
と非常に低い声で言って居る。

 蛇「内談などは聞く耳持たぬ。」
 戎は詮方なく、又声を潜め、
 「何うか三日の御猶予を。実は此の憫(あわれ)む可き華子の娘を、引き取って来て遣り度いのですから、念の為貴方が同道して下さっても構いません。費用は私が支弁しまして。」
 殆ど囁く様に請うた。

 蛇兵太は大声に、
 「馬鹿め、その様な願が聞かれる者か。三日の猶予を得て逃亡する積りだろう。此の女の娘を引き取りに行くなどと、口実は旨(うま)いけれど、其の手は食わぬ。」
 華子は此の言葉を聞いて身を震わせた。
 「エ、エ、私の娘を引き取る為に三日の猶予、それでは未だ小雪は、ここへ来て居るのでは無いのですか。小雪は、小雪は今何所に居るのです。小雪を連れて来て下さい。サア、市長さん、斑井様」

 蛇兵太は怒る様に床踏み鳴らし、
 「フム、悪人の片割れが居やがるワ。黙れ悪婆(あくば)。本当に世が逆様だ。前科者が市長に成り、淫売婦が貴婦人の様な看病を受けて居るとは。」
と言って、言葉と共に更に戎瓦戎の首筋を引き緊(絞)めて振り廻し、
 「市長さんだの斑井様など言う者はここには居ない。此奴は盗賊だ。追剥だ。前科者の戎瓦戎だ。それだから此の通り、俺が捕らえるのだ。」

 華子は骨ばかりと見える手で身を支え、起きて其の首を差し伸べ、恐れと驚きと懐かしさを眼に浮かべて、戎瓦戎の顔を覘(のぞ)いたが、之が此の女の身に僅かに残って居た、命と力とを絞り尽くしたと見える。戎の顔を見詰めたまま打ち倒れ、倒れる機(はず)みに寝台の角で、額をも打った。けれど打つ前に、もう事切れと為って居たのだ。哀れ華子は、此の様な状況の中に、この様にして、此の世を去った。

 戎瓦戎はそうと見て、我が首筋に在る蛇兵太の手を捉(とら)えた。頑丈な蛇兵太も、戎瓦戎の力に遭っては、小児よりも弱く見える。瓦戎は其の手を解き放して、
 「貴方は此の女を殺してしまったのです。」
 蛇兵太は益々怒り、
 「何だ、無礼な。サア下に居る巡査を呼ぼうか。それとも尋常に此の手錠に掛かるか。」

 手錠をでも用いなければ、戎(ぢゃん)の様な大力な罪人は、一人の力では間に合わない。戎は無言で部屋の隅に行き、其所に在る古い鉄製の寝台から、一本の鉄の棒を抜き取った。流石の蛇兵太も此の見幕には恐れを催し、戸口の所へまで、三足ほど退いた。戎は鉄の棒を持ったままで、
 「暫しの間邪魔せずに、其所に控えてお在(いで)なさい。さも無いとお身体(体)の為に成りませんよ。」

 言う言葉は静かだけれど、千斤の力がある。蛇兵太は、若し手下の巡査を呼ぶ為に、下へ行けば、其の間に戎に逃げられる恐れもあるから、詮方無くその言葉に従った。戎が何れほど逃亡の名人かと言う事は、彼らの良く知る所である。この様にして、戎は華子の死骸の傍に行った。




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