巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   五十一  X'節(クリスマス)の夜 五

 食卓に向かって老人が腰を下ろすと、直ぐに小雪は酒一瓶を持って行って、その前に置いた。之は小雪がいつも言い附かって居る役目である。何でも客には酒を飲ませて、勘定を嵩(かさ)ませるのが、此の宿屋の憲法なんだ。
 そうして小雪自らは、例の通り一方のテーブルの下へ潜り込み、絵穂子麻子(イポニーヌ、アゼルマ)の為の靴下を、編み始めたけれど、彼の老人はその酒を飲もうとしない。何だか陰気に考え込んで、小雪の有様を眺めて居る。

 酒を飲まない客と有っては、内儀の機嫌が益々悪い。無分別に酒を呑み、財布の底を叩くのが、此の宿屋には上々の客なので、唯真面目に泊って立つ客は、たとえ泊り賃を二倍払ったとしても知れた者だ。
 客は小雪の有様に、心を動かさざるを得ない。着物と言えば、冬夏押し通しの襤褸(ぼろ)一枚、夏は何れ程か暑苦しい事だろう。冬は凍え死なないのが不思議である。

 顔とても、若し肥えてでも居れば、或いは美しく見えるかも知れないけれど、痩せて頬骨の出た今のままでは、先ず醜婦だ。色は青くて目ばかりが大きく光り、総体の上に少しも釣り合いが取れて居ない。全く苦労に凋(しな)びた者だろう。此のままで置けば、遠くない中に、醜婦で居ることさえ出来ずに、骸骨と為ってしまい相だ。

 客は我れ知らず嘆息を発したが、此の時内儀は忽(たちま)ち思い出した様に、小雪の居るテーブルの下を覗き、
 「小雪、小雪、先刻言い付けた麪麭(パン)は何うした。」
と荒く問うた。小雪は胴忘(どわす)れに、忘れて居たのを、愕然(がくぜん)《ひどく驚く様子》として思い出した。けれど忘れて居ましたとは答えることは出来ない。

 口籠る様な声で、
 「麪麭(パン)屋が寝て居ました。」
と嘘を答えた。
 内儀「寝て居れば戸を叩くが好いではないか。」
 小雪「叩いたけれど起きて呉れませんでした。」

  アア八歳の児をば、嘘を吐かなければ成らない様な境遇に立たせるとは、是ほどの深い罪悪が他に有ろうか。此の罪悪は誰が作る。社会が作るのだ。
 内儀「好し、好し、全く麪麭(パン)屋が寝て居たのか。寝て居なかったのかは、明日に為れば分かる事だ。サア、先刻の銀貨をお返し。麪麭代として渡した十五銭の銀貨をサ。」

 小雪「ハイ」
と言って衣嚢(かくし)の中をを探ったが、探ると同時に青いその顔色が、灰色と為った。
 銀貨は水を汲む時に落としたのだから、衣嚢(かくし)の中に在る筈が無い。
 此の時の小雪の狼狽(ろうばい)《あわてること》した様は、何とも譬えられない。小さい手で何度その衣嚢(かくし)を裏返したかも分からない。探しては又探し、果ては眼一杯に涙を浮かべた。

 内儀はそれと見て、
  「サア十五銭の銀貨を何うしたよ。落したなどと言って盗もうとしても、そうは行かないよ。お出しよ。サア出さないか。」
と口汚く責めた。此の様を見て居た彼の老人客は、密かに自分の財布を取り出し、頻(しき)りに中を探して居たが、遂に一個の銀貨を取り出し、

 「内儀(おかみ)さん、之では無いか。今その児が衣嚢(かくし)を引っくり返した時に、転がって来たのだろう。コレここに光って居る。」
と言い、宛も床から拾い上げる様に、俯向いて取り上げながら、内儀の前に差し出した。生憎に此の銀貨は二十銭である。小雪の預った十五銭銀貨よりは値打ちが多い。けれど内儀は手を出して受け取った。そうして変な顔をしたけれど、銀貨が成長したとでも思ったのか、

 「アア是れかも知れません。」
と云って受け納め、
 「本当に此の児は茫(ぼん)やりだよ。」
と捨て言葉を以て機嫌を直した。
 この様な所へ、外から絵穂子、麻子(イポニーヌ、アゼルマ)が帰って来た。之は夜店を見に行って居たのだろう。そうして両人は、人形その他の玩具(おもちゃ)を出し、小雪の居る所から少し離れた所で遊び始めた。

 抑(そもそ)も小雪と此の両女(ふたり)と三人の年齢を合わせた所で、二十歳には満たないのだけれど、此の三人の間に、既に社会と言う現象が現れて居る。富める者が心驕(おご)って、貧しい者を擯斥(ひんせき)《除け者にする》する様と、貧しい者が羨みの心を以て、富める者の為す所を真似したそうに望み見る様とが、実際の社会に現れるよりも、良く現われて居る。

 小雪は暫しの間、楽しそうな絵穂子麻子(イポニーヌ、アゼルマ)の有様に目を取られ、手に持つ針が留守に為った。スルと内儀の鋭い眼が、之をさえ見て取って、
 「小雪、小雪、何だってその様に怠けるのだ。早くその靴下を編み上げないと、之だよ。」
と言って、一方の柱に掛かってている采配を取って、振り上げた。何時も小言と共に無慈悲な鞭(しもと)《むち》の下る事は、小雪の体に、所々紫色の痕の附いて居るので、分かって居る。

 小雪は、
 「御免なさい。」
と言って鞭の届かない、テーブルの下の奥の方へ小さく為り、同時に編み物針を取り上げた。老人客は此の時、何気なく内儀に向かい、
 「今夜はX'節(クリスマス)だから、あの児を遊ばせておやり成なさい。」
と言った。

 実に見るに見兼ねての言葉であろう。若し通例の客が、この様なことを所望したならば、内儀は無論応ずるのだけれど、襤褸(ぼろ)の様な着物を着、骨の現れた様な帽子を被って居る客が、明ら様に所望を述べるとは怪しからぬと、内儀は心の底に見識を持って居る。

 「あの児だって食いますもの。稼がなければ何を喰います。」
と答えた。誠に厳重な論法である。骨と皮ばかりに成って居るあの児が、果たして食って居るや否やは疑問であるけれど、打ち消す訳には行かない。客は柔らかに、
 「成るほど、靴下を編むのが何れ程の稼ぎ成りますか。」
と問い返した。

 内儀「そうですねえ、編み上げるのに五日掛かるか七日掛かるか分かりませんが、編み上げたなら、靴下ですから一足三十銭ぐらいの値打ちは有りましょう。」
 客「ではあの児の今編んで居る靴下を、私に売って下さい。五円(現在の約1.5万円)に買いましょう。」
 三十銭の靴下を五円とは、気違いの相場である。けれど売る方に取っては悪くは無い。帳場なる主人の傍に居た一客は驚いて、
 「オオ靴下一足が金貨に売れるのだ。旨い商法だなア。」

 内儀は自分が冷やかされるとでも思ったか、大きな目をして老人客の顔を見詰める許りで、返事が無い。主人手鳴田は口を出す場合と見て取り、
 「折角の思し召しだから、五円で売りましょう。私共は何事でもお客様のお望みと有れば、断る事の出来ない性分ですから。」

 兎に角も五円の金貨と有れば、見逃す事の出来ない性分で有ることは分かって居る。妻は簡単に、
 「即金ですよ。」
と言い足した。老人客は直ちに五円の銭を出して、テーブルの上に置き、その上で小雪の居る所に向かい、
 「サアその仕事は私が買ったから、もう心配には及ばない。遊ぶが好い。サ、安心してお遊びよ。」
と言い渡した。

 昔からX'節(クリスマス)の晩には、宝物を沢山に持った優しい神様が現れるとの言い伝えあるが、確かに小雪の前には、その神様が現れたのだ。





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