aamujyou53
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
五十三 X'節(クリスマス)の夜 七
三十円(現在の約九万円)もする人形を、この様な老人が買って来て、小雪の様な者に与えるとは何事だ。真に内儀(おかみ)は驚きもし怒りもした。暫(しば)しの間は声も出なかった。
抑(そもそ)も此の老人は何者だろう。身姿(みなり)を見れば貧民だが、為(す)る事は大金満家だ。アアそうだ、大金満家と貧民とを兼ねた身分だと内儀は思った。両方を兼ねた身分ならば、取りも直さず盗坊(泥坊)なんだ。何所かで大きな稼ぎをしてここへ来たのだ。
けれど亭主の方は中々内儀の様な目盲では無い。兎に角も近来に無い福の神だと見て、直ぐに立って来て妻の耳に囁いた。
「何でも彼でも、御無理御尤もと従って居なければ成らないよ。」
内儀は此の戒めに服した。直ぐに小雪に向かい、
「サアお客様が遣(や)ると仰(おっしゃ)るのだから、戴いてお礼をお言い。」
口には此の様に優しく言っても、心ではもう、明日直ぐに小雪を叩き出すと言う積りに成って居る。厄介者の身分として、主人の娘よりも立派な人形などを持つと言う事が有る者か。以(もっ)ての外だ。怪しからぬ訳だ。之をそのままに許しては、主婦人と言う役が勤まら無いのだ。
人形を受け取って、小雪の喜んだことは言う迄でも無い。自分の身は襤褸(ぼろ)を纏(まと)い、そうして錦(にしき)を着た人形を弄(もてあそ)ぶとは、不釣合いの限りでは有るけれど、その様な事は気にかけ無い。テーブルの下へ連れて入り、抱いたり寝かせたり、果ては勿体ない様に椅子の上に置き、自分はその前に座して、倩々(つくづ)くと眺め上げて拝みなどした。
是で絵穂子(イポニーヌ)と麻子(アゼルマ)の方が、却(かえ)って羨ましさに我慢が出来ない様に、小雪の方を偸(ぬす)み視る事に成った。貧富一夕にして地を替えるとは、之も実社会の有様が此の三人の間に現れて居るのだ。
この様にして、夜の更けるに連れ、客も追々に退き、絵穂子(イポニーヌ)も麻子(アゼルマ)も寝(い)ね、小雪も寝ることを許された。独り彼の老人のみは寝る様子が無い。
宵に腰を掛けた通り、テーブルの前に腰を掛け、首を垂れて頬杖をつき、黙然と控えて居る。座睡(いねむ)るのかと見ればそうでは無い。唯だ深く考え込んで居るのだ。何事かは知らないけれど、此の老人の身に成れば、身に余るほどの思案や心配が有るのだろう。兎も角も、此の福の神様が寝ない中は、主人夫婦も寝る訳に行かない。二人額を突き合す様にして帳場に座り、唯だ福の神様が何とか言葉を発するだろうかと、そればかりを待つ中に、二時を打った。
もう内儀の方は耐(こら)える事が出来なくなり、恐る恐る福の神様に近づいて、
「未だお寝(休)みには成りませんか。」
と問うた。老人は初めて気の附いた様に、
「オオ寝ましょう。」
と云ったが、更に又思い出して、
「私の寝る馬屋は何所です。」
と問うた。
「此方です。」
と亭主が答え、直ぐに立って案内した。中々馬厩(馬屋)では無い。此の家で第一等の寝室だ。下座敷の最も奥まった所に在る。老人は意外の思いで見廻した。
「アア是が馬厩(うまや)」
亭主「ハイ此の室は一年に一度か、三年に二度、特別のお客様にのみ使うのです。」
成ほどそうで有ろう。田舎の宿屋に似つかわしく無く、一切の設備が揃(そろ)って居る。
亭主は給仕の為すべき丈の事を自分で為し、
「何うか御緩(ごゆっく)りお寝(休)み下さい。」
と恭(うやうや)しく述べて帳場に帰った。内儀は眠い目を擦(こす)り擦り、
「明日は小雪を叩き出してしまいますよ。」
と言った。
亭主は
「そう早まるには及ばない事だ。」
と、何か独りで呑み込んで居る様に答えた。
一家が悉(ことごと)く寝鎮まって後、老人は手燭を取って寝間を出て、足も静かに台所の方へ忍んで行き、暫(しばら)く立って耳を澄ました。何所の辺からか、子供の寝息が聞こえて来る。それを頼りに又進むと、古い大きな暖炉(すとーぶ)に、火は絶えて居るけれど、その前に絵穂子、麻子(イポニーヌ、アゼルマ)と二歳許かりの男の児とが、団子の様に成って眠って居る。
此の男の児は昨年、手鳴田夫人が産み落したので、絵穂子、麻子(イポニーヌ、アゼルマ)の弟である。そうしてその暖炉の下には、小さい靴を脱ぎ揃いてある。何故と問う迄も無い。昔からの言い伝えに、X'節(クリスマス)の夜に、靴を暖炉の前に脱ぎ揃えて置けば、眠って居る間に、優しいお化けが現れて、その中へ宝物を落として行くと言うのだ。
子供がそれを楽しみに嬉しく眠ると、翌朝果たして靴の中に銀貨などが入って居る。是は母親などが密かに遣るのである。老人は先ず靴の中を覗いたが、既に優しいお化けが来た後だと見え、靴の中に銀貨が光って居る。何だか先刻自分が、小雪の落としたのだと云って手鳴田夫人に渡したその銀貨らしい。
再び老人は耳を澄まし、又他の寝息を辿って行った。是は別の部屋であるけれど、小雪が彼の人形を抱き〆て眠って居る。四辺を見廻すと、靴と名を附け兼ねる様な、破れた履物がある。之を見て老人は涙を垂れた。小雪の様な辛い境涯に居る者さえ、真実に何者かが宝を落として呉れる者と信じ、此の様な事をして置くのだ。仕て置くは好いけれど、小雪の為に宝を落として行く様な、優しいお化けが何所に居るだろう。
明日の朝起きて靴を検め、中に何にも無いのを見て、何の様にか失望するだろう。その失望を恐れもせず、深く信任して、此の様な事をするその清浄(しょうじょう)《穢(けが)れが無く清らかなこと》な勇気は、神々しいとも言うべきである。この様な子供の心を失望させるほど世に罪の深い業(わざ)は無い。此の様な失望が重なり重なって、次第に心を拗(ねじ)けさせ、社会に容れられぬ様な根性にしてしまうのだ。
老人は財布をを探り、二十円の金貨を取り出し、之をその履物の中へ落し込んで去った。小雪は明日の朝、何の様に眼が覚めるやら。
夜は遂に明けた。他の客は未だ寝て居る六時頃に、彼の老人は、宵に持って来た自分の荷物、大きな杖(ステッキ)と一個の風呂敷包を提げて、寝間から出て来た。
早や立とうとする様子である。内儀は帳場から立って出て、オヤもうお立ですか、お早いのに。」
老人「ハイ、立ちます。勘定書を示して下さい。」
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