巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou59

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   五十九  隠れ家 二

  「愛」と言う心ほど、美しい者が世に有ろうか。初めて之を味わう人は、酔って仙境に入る思いがする。
 女が初めての我が児を抱き、綿よりも柔らかな可愛い頬を、我が頬に当てた時、恍惚として夢幻の境いに入るほど、嬉しいのでは無いだろうか。是がその「愛」であるのだ。

 戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)は此の様な愛を感じた。此の翌の朝も、小雪の寝台の傍に行き、小さいその寝顔を熟々(つくづく)と打ち眺めた。眺めるに従って、彼の心の底には、母の心の底に起こる様な、切ないほどの望みが起こり、自分の魂までも唯だ此の寝顔に引き付けられる様に感じた。彼は不知(しらず)不識(しらず)に小雪の手を取り上げて、その甲に自分の唇を当てた。

 吁(ああ)彼が接吻すると言う事は、五十余年来唯二度目である。一度は今より九カ月前に、此の児の母の手を取り上げて接吻した。それは死骸の手であった。冷たかった。今は温かな眠った手であるけれど、彼は九カ月前の事をも思い出し、何やら恭敬(うやまい)の心も起こり、胸の裡(うち)も板の様になった。彼は直ぐに手を放して黙祷した。心には唯だ嬉しさが満ち満ちて居る。神に謝せずには居られないのだ。

 併し此の時が、後にも先にも彼の生涯に、一番嬉しい時では無いだろうか。此の嬉しさが何時まで続くだろう。此の時以来、彼は小雪の父である。母である。友達である。保護者である。小雪が人形を以て遊ぶのを、彼は余念も無く眺めた。遊び飽きた頃は、少しづつ読み書きをも教えた。彼は小雪をその母の様な、不幸な女に為(し)たく無い。一人前の女として、相当の地位、相当の尊敬を得る迄には育てた上げたい。

 素より読み書きは必要である。日を経るに従って小雪は、思ったよりも気の晴れやかな女に成った。その陰気に萎(い)じけて居たのは、決して小雪の天性では無かった。戎(ぢゃん)に向かって話もする。戎の膝に上りもする。通例の小娘が、その父やその母にする丈の事を、悉くする事になった。此の様にせられると、戎は心の底から身が揺らぐ様な気がする。時々は嬉しくて涙が出る。

 そうして戎は、折々は手を引いて小雪を外に連れて出た。出るのは必ず夕方である。昼間の明るい時には出ない。時に依ると自分独りで出る事もあった。衣服(みなり)は相変わらず羊羹色《黒や紫色が色あせて見すぼらしくなった色》の古びた外被(うわぎ)で、人に乞食としか思われない程であった。

 けれど彼は路傍(みちばた)に乞食を見る度に、素通りすることが出来なかった。四辺(あたり)に見る人の、絶えるのを見澄まし、幾等かの金を遣った。時々は銀貨さえも与えた。此の様な奇行は、幾等隠しても人の評判と成らずには止まない。乞食の衣服(身形)で乞食を救うとは、不思議な老人だと言って、誰言うとは無く、
 「乞食を救う乞食」
と彼を綽名(あだな)した。

 此の様な評判が若し広がっては、世を忍ぶ彼の為に、良く無い事は無いだろうか。
 それが為とでも無かろうけれど、家番の老婆も、何時とは無しに、彼の出入りに気を附けることに成った。或時此の老婆は、彼が独りで二階の空き間へ入るのを認め、抜き足して戸の外に寄り、中を覗いた。怪しむ可し、彼は一丁の挟(はさ)みを持ち、古い胴着の裏の縫い糸を切って居る。
 そうして、傍(かたわ)らには針と絲(糸)とを置いて在る。男の身で針仕事とはと、更に覗いて居るうち、彼は綻(ほころ)ばせた胴着の裏から、黄色い紙を取り出した。良く見るとその紙は、此の婆が生まれて二、三度しか見た事の無い、千円の紙幣である。婆は驚いて下に降った。
 翌日戎は婆に向かって、
 「昨日株式から半年分の配当を得たのだ。」
と言って千円札を出し、両替して来て呉れと頼んだ。

 婆はその言葉に従ったけれど、恐ろしそうに身震いした。そうして此の幾日を経て、戎と小雪の留守を窺(うかが)い、婆は彼の空き間へ忍び込んだが、見ると壁に前日の胴着が懸って居る。その裏を検めると、綻(ほころ)ばせた破れ口は、元の通りに縫って在る。婆はその胴着の衣嚢(かくし)を探った。中に在る品は更に驚くべしである。

 鑿(のみ)や錐(きり)など、総て泥坊の用い相な道具の外に、急に姿を変える為に用いる、懐中鬘(ひげ)が入って居る。婆は更に胴着の裏表から手を当てて、その心を撫でて見た。是は何うだ。中には未だ千円札と思われる厚い紙が、幾枚か入って居て手に応える。婆は全く顔色変えた。
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 又幾日の後、戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)は小雪を残して夕方の散歩に出た。彼が常に行く寺に行った。寺の入口に、常に一人の乞食が居る。年は七十以上で、昔寺男を勤めたと言う事だが、毎(いつ)も戎は、此の乞食に銭を遣る。此の時も財布から小銭を出し、その前に差し出したが、乞食は居眠る様に垂れて居た首を異様に上げて、下からジッと戎の顔を見上げた。

 今しも火を灯した許(ばか)りの、寺の門の常夜灯が、乞食の顔の半面を照らしたのを見て、戎は立つ足の力をも失うほどに驚いた。吁(ああ)此の乞食の顔、乞食の顔、毎(いつ)も見る正直気な顔では無く、戎・瓦戎の眼には忘れるにも忘れられない、恐ろしい見覚えの附いた顔である。此の顔は抑(そもそ)も何者。



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