巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou60

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   六十  隠れ家 三

 下からジッと戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の顔を見上げた乞食の顔は確かに見覚えが有る。只者で無い。只の乞食で無い。
 若し戎が通例の男ならば、驚きの余りに必ず「咥(キャ)ツ」と叫んで、全く度胸を失う所だったろう。けれど彼は、そうで無くてさえ、薄い氷の上を歩む様な自分の境遇の恐ろしさに、寸刻の油断も無く心を緊(し)めて居る男である。唯だ「危険」と言う一念が、彼の咽喉(のど)を塞いでしまった。彼は一言をも発しない。身動きをもしない。胸は大波の打つ様に騒いで居ても、上辺だけは非常に静かに乞食の姿を見降ろした。

 乞食は早や首を垂れ、受け取った銭を押し戴いて居る。その顔は再び見えない。けれどその被(かぶ)って居る帽子も何時もの帽子、服も何時もの襤褸(ぼろ)、そうして背中の恰好も何時もの乞食である。戎は自ら疑った。扨(さ)ては此の者の顔が、我が目に恐ろしく見えたのは、我が目の迷いで有っただろうかと。

 併し戎は再び此の乞食に顔を上げさせ、迷いか真事(まこと)かを確かめる勇気は無い。成るべく何気無い形を装(よそ)おい、蹌踉(よろめ)く足で蹌踉 かない様に歩んで我が宿へ帰って来た。帰った後も乞食の眼が眼に着いて居る。何う考えても乞食で無い。巡査部長蛇兵太の眼であった。

 吁(ああ)、蛇兵太、彼れがまだ私に着き纏(まと)って居るのだろうか。戎は夜一夜、蛇兵太の顔に魘(うな)され、殆んど眠ることが出来なかった。或時は後悔した。この様にあの顔が気に掛かる程ならば、何故その時に、もう一度顔を上げさせて、良く見定めなかったのだろうと。けれど今は取返しが附か無い。

 翌日再び寺の門前へ行った。今度こそはじっくりと乞食の顔を見定める積りである。見定めて若し蛇兵太で有った時には、此の上も無い危険だけれど、さればと言って、定めずに居る事は到底出来ない。彼だろうか、彼で無いだろうかと心配して、長く長く気を揉むのは、殆ど身を刪(けづ)られるよりも辛い。却(かえ)って確かに蛇兵太と分かって、捕らえられた方が結局安楽かも知れないと思う程の苦しみである。

 やがて寺の門に着くと、あの乞食が依然として控えて居る。今度は昨日の様に、首をも垂れては居ない。何う見ても蛇兵太らしい所は少しも無い。何故に此の憐れむべき顔が、獰悪(どうあく)《性質が荒々しく、悪い事》な蛇兵太の顔に見えたのだろう。何故でも無い、此の乞食の代わりに、蛇兵太が此の通りの身形(みなり)をして、此の場所に座って居たのだと、こう思えば合点は行くけれど、戎瓦戎はまさかに、そうと迄は思わない。

 全く自分の気の迷い、心の迷いで有ったのだと思い詰めた。それにしても是ほどの見違いを為すのは、年を取った為、我が視力の衰えた所も有るのか知らんと、少し心細い感じもした。
 是より四、五日を経た夜の八時過ぎに、戎は部屋の中で小雪に本を教えて居たが、忽ち耳に留まったのは、此の家の入口の戸の開いた音である。

 家番の老婆は、油を倹約する為に、何時もの通り既に寝た筈であるのに、何者が入って来るのだろう。確かに錠を開く音まで聞こえたからは、鍵を以て居る人に違いない。戎は異様に身の危険を感じ、更に耳を澄まして待つと、暫くして重い靴で、、階段を非常に静かに上って来る音が聞こえる。何うも老婆では無い。男の様だ、男の居ない家に、男の足音とは愈々怪しい。

 戎は直ぐに小雪を寝間に入れて寝かした。小雪は戎の言葉には少しも背かず、一言の怪しむ様な語をさえ吐かずに、寂然(ひっそり)として寝てしまった。後に戎は、部屋の明かりを吹き消して、今まで自分の座して居た椅子に座した。此の椅子は戸口の方へ背を向けて居る。そうして良く聞くと、以前の足音は、もう消えてしまったけれど、既に此の二階へ上って来た事は必然である。のみならず、自分の迷いかは知らないけれど、何うやら此の部屋の外へ来て、立って様子を聞いて居るらしい。

 何か無しに、戎の心にその様な気がするのだ。戎は彼の乞食の事をも思い出した。蛇兵太の顔さえ目に見える様な想いが浮かんだ。彼は全く息を殺して、若しも自分が今、戸の方に振り向いて見るならば、果たして外で何者かが、内の様子をを窺って居るか否やが分かるかも知れない。けれど戎は振り向く事が出来ない。妙に自分の身が剛(かた)くなった。足が蹙(すく)んでしまった様に感じた。

 けれど蹙(すく)んでばかり居ては果てしが無い。思い切って振り向いて見ようかと思う折しも、暗い我が正面の壁の表に、一点、宛も人の目の様な光る者が現れた。アア是は目では無い。戸の外で、忍びの燈火を点(てら)して居るのだ。燈火の影が戸の鍵穴から洩れて、向かいの壁に映るのだ。もう振り向く必要は無い。振り向く勇気も無い。確かに先刻の足音が、忍び寄って、此の部屋の外に立ち、此の部屋の内を窺って居るのだ。

 戎は唯だ壁に落ちた一点の光を見つめるばかりだ。
 蛇に見込まれた蛙が、蛇の目の光から、己の眼を離す事が出来ないのと同じ様に、戎は壁の光から自分の眼を離す事が出来ない。全く恐ろしさに引き付けられるのだ。光は揺々(ゆるゆる)と動いて居る。動くのは蛇が動くのだ。戸の外に蛇が居るのだ。蛇兵太が立って居るのだ。

 ここに至って戎瓦戎たる者は、何うしたら好いだろう。逃げようか。何して逃げられる者か。唯捕かまる一方である。だからと言って捕まって、小雪と引き離されて、自分独り又牢へ。それは出来ない。  
 戎の額には、闇の中ながら玉の汗が浮いた。


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