巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou63

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   六十三  落人 二

  戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は絶望して天を仰いだ。天より外に助けの来る所は無い。右も警吏(とりて)、左も警吏、前は高さ二丈(6m)もある石の塀。後は三階建ての家である。
 家の窓を押し破って逃げて入るか、高い塀を飛び越すか、家は月の照る傍である。窓の所へ行けば必ず町の一方に居る警吏の目に見付けられる。

 塀は翼無き身で飛び越す方法が無い。何うしても、もう捕まるだけである。彼の目には、早や牢屋の景色が浮かんだ。今度捕らわれれば三度目の入獄なんだ。それも厭(いと)わないとした所で、小雪を何うする。小雪は到底通例の人間に育つことは出来ない。彼は小雪を塀の下の暗い隅に立たせた。そうして自分は塀に添って狂い廻った。

 若しや塀の何所かに少しでも破れた所は無いだろうか。潜り入る穴でも無かろうか。
 やがて町の一方の端へ、六、七人の兵卒が現れた。その真っ先に立って居る背の高い姿は、見違え様も無い蛇兵太である。兵の持って居る銃の剣先が、冬の月に煌めく光さえ良く見える。何と言う物凄さだろう。一歩又一歩に此の一隊が近寄って来る。

 彼等は物影と言う物影には悉く立ち寄って検め、路地と言う路地は残らず入って見届けるのである。従ってその歩みはそう早くは無い。戎は光る剣尖(けんさき)を見詰めたままで考えた。彼等はここへ来る迄に何れほどの時間が掛かるだろうと。長く積もっても先ず二十分の間だろう。その二十分が自分の寿命である。

 もう塀を攀(よ)じ登る外は無い。通例の人には迚(とて)も攀じ登る事は出来ないけれど、戎には或いは登る事が出来るかも知れない。とは言え、小雪を何うするのだ。足場も手掛けも無い絶壁を、自分一人でさえ登れるかどうか確信が持てないのに、小雪を連れて登られる筈は無い。若し縄でも有るならば、アアそうだ縄は何所かに無いだろうか。彼は忙しく八方を見廻した。若しも此の時の戎瓦戎が王国を持って居たなら、一条の縄を得る為には、王国を捨てるのも厭(いと)わないだろう。

 イヤ縄は無いでも無い。此の頃の巴里の町は未だ瓦斯が無い。道の或る距離毎に硝燈(ランプ)を吊り、月夜の時は之を点(とも)さずに、闇の夜だけ点す事と為って居て、その硝燈(ランプ)を上げ下げするのに縄を用い、縄は普段、硝燈(ランプ)柱の下に鉄の箱へ入れ、箱には錠を下ろして、その鍵を町内の番人が預って居たのだ。

 縄は此の縄より外に手に入る見込みが無い。鉄の箱に仕舞って有る者を、取り出す事が出来るや否や自信はないけれど、その様な事を危ぶんでは居られない。戎は思い附くと同時に駆け出して、硝燈(ランプ)柱の下に行った。

 丁度、戎の身は二つの背嚢(はいのう)《リュックサック》を背負って居る様な者だ。一方には慈悲限り無い聖人の心が入って居る。是は高僧ミリエルの賜物(たまもの)だ。一方には塀を乗り越すとか錠前を破るとか言う様な、盗児の術が入って居る。是は長年牢の中に居た賜物なんだ。今の様な境遇と為っては、両方の袋の物を用いる外は無い。

 彼は先ず小刀を以て鉄箱の錠を開いた。そうして縄を取り出した。直ぐに彼はそれを持って小雪の居る所に馳せ帰った。
 先ほどからの彼の挙動に、小雪が若し通例の子供ならば、必ず驚き恐れて泣き叫ぶ所だろう。けれど、小雪は泣き声さえも容易には立てる事が出来ないほど、萎縮(いじ)けて育って来た身の上で有る。恐る恐るに戎の袖口に手を掛け、泣き出すばかりの声で、

 「阿父(おとっ)さん、私は恐く成ったよ。彼所(アソコ)へ来るのは誰ですか。」
 誰でも無い、蛇兵太の一隊だ。戎は声を潜めて、
 「オオ静かにおし、静かにおし、手鳴田の内儀(おかみ)さんだよ。」
 軍曹旅館の内儀の名が、小雪には何よりも恐ろしい。小雪は寂(ひっ)そり静かになった。

 戎「そうだ、そうだ。静かにさえして居れば、ナニ、何うかなるよ。若し泣き声でもすれば、直ぐに内儀さんが聞き付けて来て、和女(そなた)を捕らえるから。」
と言い、そのまま自分の襟飾りを取り外し、之を伸ばして更に輪と為し、小雪の脇の下を縛り、その中ほどに今取って来た縄の一端を結び、他の一端を口に噛み持ち、高さ二丈の塀を登り始めた。

 梯子も踏み台も無いけれど、少し許りの高低が彼に取っては手掛かりである。彼の全身の怪力は、手の先と足の先とに集まって居る。下から小雪は恐ろしそうに目を見張って、彼の攀じ登る様子を見上げて居た。



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