巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou68

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   六十八  尼院(あまでら) 三

 生きながら棺の中に入れられて、死人の状態で此の尼院(あまでら)を忍び出るとは、此の上も無い危険な業だ。棺の中で絶息すればそれまでだ。
 けれど戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は覚えが有る。今まで数度の逃亡に、随分人間の潜む事の出来ない所へ潜んだことも有る。他の人なら死ぬに決まった様な所を、死なずに漕ぎ抜けた事も有る。それに又今の場合は棺の中に潜む外に仕方が無い。

 此の決心を聞いた星部父老は、信じる事が出来ない程に驚いたが、遂に戎瓦戎に説き伏せられた。そうして良く考えて見ると、必ずしも出来ない事では無い、棺は死骸室と言う所へ置いて有る。其処へ入るのは、医師と星部父老とのみだ。出棺は明日の午後三時頃で、棺に蓋(ふた)をするのは、その一時間ほど前だから、それまで戎瓦戎を、その傍に在る道具部屋へ忍ばせて置き、蓋する間際に棺の中へ入らせれば好い。

 蓋は成るべく弛(ゆる)やかに釘を打ち、その上に錐で数箇所に小穴を穿(あ)けて置けば、息の出来ない事も無いだろう。無論棺の外へは白い布を被(かぶ)せるのだから、穴が有っても分かりはしない。
 そうして愈々(いよいよ)墓場まで持って行けば、此方(こっち)の者だ。墓場に居る穴掘り人は、前から星部父老と懇意な酒好きな親爺だから、棺を穴に下ろして、未だ土を掛けないうちに、一杯馳走をすると言えば、直ぐに連れられて近所の居酒屋に行くだろう。

 居酒屋で泥酔させ、眠らせて置いて、星部父老一人が穴の所へ引き返し、棺を開いて人を取り出だし、空棺だけを埋めて去れば好いのだ。
 こう話が決まったから、此の夜の中に、星部父老は先ず小雪を葛籠(つづら)に入れ、買い物に行く振りで、自ら背に負って裏門から出て、懇意な家へ預けて置いて帰って来た。

 勿論小雪には戎から然るべく言い含めて有るのだから、泣きも驚きもしない。此の次に戎を道具部屋に忍ばせ、明日の午後二時頃までの食物をも与えて置いた。
 此の外に此の夜、星部父老のする仕事は、本堂の祭壇の下へ、死んだ尼君を埋める一条で有ったが、是れも夜の明ける迄に守備良く済ませた。
  *    *    *    *    *    *
    *    *    *    *    *
 翌朝の午後三時頃、定めの通り棺は此の尼院から担(かつ)ぎ出された。無論中には生きた戎瓦戎が忍んで居るのだ。此の棺に従って、星部父老は墓地に行った。何にしても非常に心配の仕事だから、先ず墓穴の所へ行って見ると、当にして居た酒好きの翁は見えず、色の青白い痩せ形の若い男が、鋤と鶴嘴(つるはし)を用意して立って居る。父老は我が計画が根本から破れた様に感じたが、念の為と思い、その男に向かい、

 「私は尼院から来た埋葬人だが、兼ねて此の墓場を受け持って居る埋葬人は居ませんか。」
 若い男「僕がその埋葬人さ。」
 父老「エ、今までの老人は」
 男「アノ酒好きの翁か、彼(あ)れは先日死んでしまった。」

 父老は全く驚いた。
 「ナニ彼の埋葬人が死んだ。」
 男「何もその様に驚く事は無い。人の為に穴を掘る人でも、遂には自分の埋められる順番が来るのさ。それで僕がその後任に採用せられた。」
 穴掘り人には不似合いな言葉附きである。

 父老「お前さんが後任か。」
 男「そうよ。拿翁(ナポレオン)の後へは路易王が位に即(附)くじゃ無いか、酒好きの翁の後へは餅好きの僕が上げられたのだ。」
 父老は殆ど腹立たしい程に感じ、
 「お前さんは全体何者だ。」

 男「オオ僕かえ、僕は文学者だよ。文学者だけれど、此の頃は書肆(しょし)《本屋》の眼識が低くなって、僕などの高尚な傑作は原稿が売れないから、内職に穴掘り人を志願したのさ。」
 父老「内職に」
 男「そうさ、是でも未だ文学者と言う本業を捨てはしない。朝の中は宿に居て、近所の女中達が兵を送る宣戦の布告を代筆してやり、夕方になると鋤と鶴嘴を肩にして墓地へ来るのさ。」

 文学者が、本業には下婢の為に艶書を代筆し、内職には墓の穴を掘りに来るとは、何と言う世の様だろう。併し父老はその様な感慨に馳せる余地は無い。
 「何しろ私は尼院に居て、埋葬の為には度々ここへ来るのだから、お前さんと懇意を結んで置かねば成らない。お近附きの為に、其処らで一杯飲んで来ましょう。勘定は私が奢(おご)りますから。」

 男「イヤ僕は酒が嫌いだ。ナニ酒などを用いなくても、懇意には成れるよ。」
 父老は殆ど返す言葉が無い。
 「ナニお前さん、其処の酒屋へ行けば、下戸の口に合う甘い酒が有りますから。」
 男「イヤそれにしても仕事が先ぢゃ、任務を終わっての帰り道なら、随分馳走にも成るけれど。」

 もう此の上に説く道は無い。父老は何とか好い工夫はと、只管(ひたす)ら頭を悩ませて居る間に、早や棺は此の處へ担(かつ)ぎ込まれた。容赦も無く穴掘り文学者が縄を掛け、穴の中へその棺を吊り下ろした。如何とも仕方が無い。次に祭官は、穴の上から棺を見降ろして、祈祷を捧げ、式の通りに神水を之に注ぎ、滞り無くその職務を済ませて引き取った。全く父老は千々に心を砕いた。けれど文学者を遮る工夫は無い。

 彼は名句を吐く積りで、
 「早く布団を着せてやらなければ、定めし寒くて眠れまい。」
と言いながら、早や鋤を取り上げて棺の上にパラパラと土を落した。



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