巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou8

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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    噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史

       八  恍として見惚(みと)れた

  二十七の歳から四十六まで、全く人間の盛りである。此の盛りを牢の中で過ごすとは、それも大した罪の有る事かは、麪(パン)一片(ひときれ)を盗み損じた罰だとは、真に無残の極である。そうして漸くに牢を出れば、家も無い、食も無い、満十九年の汗脂で稼ぎ溜めた金が百法(フラン)の余は有っても、世間の人が相手にして呉れない。犬猫よりも劣って居る。

 此の様な人に、正しく心を持てと言うのは無理だ。彼戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)は牢の中で既に心が捻(ね)じけもし、曇りもして、深く物の道理などを考える事が出来なく成った。偶(たま)には考えもするけれど、唯恨めしさが先に立ち、人間らしい思案は出ない。

 或時は自分で自分の境遇を夢の様にも思い、乱暴でもすれば、夢が破れて自由の身に成られるかと思う事さえある。兎に角も自由が得たい。早く牢の外に出度いと、それ許(ばか)り思うから、逃げられる折さえ有れば、直ぐに逃げる。逃げて逃げ果(おは)せられるか否や、又捕まれば前より刑期を延ばされはしないか否や、などの事は考えて居られ無い。丁度檻(おり)の中に入れられた獣の様な者だ。檻の戸に隙間さえ有れば、直ぐ逃げる。

 全く彼の心は獣の心の様に、唯その時の衝動に従うのだ。思案でも無い、欲でも無い、単に逃げ度いから逃げ、奪い度いから奪う。深い考慮はして居られない。詰まり十有九年の残酷な境遇が人を獣にしてしまった。

 本来彼は力が強い。四人前の力は確かに有る。取分けて背(せな)に物を負う力などは、度々官吏や同囚の者を驚かせた。その上に又身の軽い事が驚くべき程である。牢の中には逃亡の学問が有って、少し刑期の長い囚人は、間がな隙がな、之を勉強して居る。

 彼は監獄の学校に入り、読み書きを勉強する外には、常に此の逃亡術を研究した。読み書きの方は、知識を得て世間の憎さを知り、出獄の後に世間へ仇を返するに必要で、逃亡の方は、早くその仇を返す時を得るのに必要だと、此の様に思って居る。

 彼は牢の中で、他の囚人の登る事が出来ない壁などを、易々と上り、又塀を越え垣根を飛ぶなどは最も得意だ。人が梯子を掛けても恐れる様な高い煉瓦作りでも、彼はその隅の角に成って居る所を手足で挟み、巧みに這い登って、二階へでも三階、必要に依っては屋根へでも登って行く。

 是が却(かえ)って彼の身の仇と為り、四度も逃亡を企てて、五年の刑期を十九年に引き延ばされる本とも為り、又鑑札の表に、危険極まる囚人として、特に警察への注意を書き入れられる元と成ったのだ。

 この様にして十九年の刑期が漸く済んで、今度放免せられた時、
 「汝の身は今日より自由である。」
と言い渡された言葉が、夢か現実か分からない様に彼の耳には響いた。

 それから在獄中の工銭を受け取る事になった時、彼の腹の中での計算では、二百法(フラン)の余に為って居る事と思って居た。所が僅かに百法(フラン)の余しか無い。是は多分休みの日の分や、種々の費用を差し引かれた結果で有ろうけれど、彼はそうは思わない。確かに役人に半分だけ盗まれた者と信じた。是らの事からも、世の中の憎さが増した。

 それから牢を出て、此の地へまで来る途中で、土木の仕事が有ったから、彼れはそれに雇われた。只だ一日だけれど、兼ねての大力ゆえ四、五人分も働いた。そうして共に働いて居る人足に聞いて、見ると、一日一人の賃金が三十銭以上だと言う事である。

 牢の中の賃金に比べると余ほど割が好いので、彼は心に喜んで居たが、その所へ通り掛かった警官が彼の風体を怪しみ、姓名を取り調べた。彼は正直に答えて黄色い鑑札を示したが、警官は人足頭に何事をか呟(つぶや)いて立ち去った。

 彼は其の翌日解雇せられた。そうして一日分の賃銭を要求すると、たった十五銭しか渡されない。此の様な筈では無いと争ったが、
 「貴様にはそれで沢山だ」
と言って相手にしない。ここでも彼は又自分の賃銭を盗まれた様に感じた。

 世間は盗みで立って居るのだ。監獄の官吏も盗み、土木の人足頭も盗む。此の盗まれた丈は世間から盗み返すのが当然だ。誰も皆盗みをするのに、自分一人盗みするのが何で悪いと、彼はその曇った心の中で、この様に考えた。それだから親切の限り無く深い僧正の家に寝ても、又銀の皿を盗もうと言う気に成った。

 もっとも、様々の気兼ねが、心に起こらないでは無かった。第一は僧正の正直な様子である。十九年来絶えて、起こった事の無い気の毒と言う念が起こった。こう親切にして呉れる人へ、恩を仇で返しては「済まぬ」との針で突く様な感じもした。

 何故(なぜ)あの人の言葉が、監獄官吏の言葉の様で無いのだろう。何故アノ顔が人足頭の様な、憎々しい顔で無いのだろうと、それを聊(いささ)か残念にも思った。けれど自分で思い消した。人の顔付や言葉付きを気にして泥坊が出来る者かと。

 そうして第二には又も捕らわれて、再び牢へ引き戻去れはしないだろうかと、気遣(きづか)った。此の気兼ねは前の気兼ねよりも烈(きつ)かったけれど、ナニ監獄の官吏だって盗む。人足の頭だって盗むとの一念が、又此の気兼ねを掻き消した。それが為に遂に僧正の部屋に忍び入ったのは何と言う不幸な奴だろう。

 僧正の部屋は暗い。彼戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)は泥坊には慣れて居ない。その実、是が真の初めてとも言うべきである。あの皮袋から取り出した、鑿(のみ)の様な道具からしても、泥坊の用意では無い。牢の中で石の細工をするのに用いたのを、そのまま持って来たのだ。

 それは扨(さ)て置き、戸が開いて先ず嬉しやと一歩進む足許に小さい台が有った。それが彼の足に掛かって倒れ、静かな部屋に異様な物音を為した。ビクビクして居る彼の耳には、殆ど警鐘を打たれた様に感じ、身動きも為し得ないで、そのまま蹙(すく)んだ。

もう確かに捕らわれるのだとの心が、一時に湧き起こり、目の前には十九年の長い苦役が歴々(ありあり)と見える様に感じた。アア、もう駄目だ、再び牢屋へ引き戻されるのだ。

 後悔などと言う善念のもう凋(しな)び尽くして居る彼だけれど、此の時だけは、強い強い後悔の念が出た。何故(なぜ)盗む気に成ったのだろう。何故此の部屋へ忍び込んだだろう。何故再び捕らえられる恐ろしさを、もっと良く考えて見なかったのだろうと。

 けれど之は少しの間だった。暫(しば)し蹙(す)くんで居る中に、誰も目を醒ました様子は無い。部屋の中は再び静かに成った。
 彼は又忍び足で進んだ。そうして僧正の枕許に立った。僧正は確かに熟睡して居る。その寝息の平な事は宛(あたか)も小児の様である。僧正の寝台は窓の下だ。彼は窓から指す薄明りに、ソッと僧正の顔を眺めた。

 この時、天にも意があるかの様に、空を包んだ叢雲(むらくも)が忽ち破れ、冴え渡る秋の夜の月が、僧正の顔を照らした。同じ人間でありながらも、監獄吏や人足頭などの顔と、何と言う相違だろう。戎・瓦戎は此の様な顔を見た事が無い。唯だ恍(こう)《うっとり》として見惚(みと)れてしまった。



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