巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou80

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十 白翁と黒姫 二

 醜い程に思った一少女が唯半年の間に、何うしてこうも見違えるほど、美しく成ったのだろう。是は育ったのだ。成長したのだ。イヤ成長したのみでは無い。理想化したと言う者だ。少しも怪しむには及ばない。万物には総て理想化する時が有る。弥生の花は唯一夜で開くでは無いか。半月前は葉も無く蕾も無く、枯れ木の様に見えて居て、蝶も来ぬ。鳥も来ぬ。それが春風と言う天然の恵みを受ければ、爛漫《花の美しく咲き乱れた様子》の姿に咲き出で、満都の士女を悩殺するでは無いか。

 その爛漫の姿を見て、誰が数日以前の、枯れ木の様に見えた枝と同じ者だと思うものか。黒姫は未だ爛漫の姿では無い。是からその姿になる蕾なんだ、蕾と花との間なんだ。けれどもう爛漫の理想が見えて居る。何所と無く春光が満ち満ちて、輝き渡る様に見受けられる。

 守安はいつもの様にその前を通った。姫の白翁と話する声を聞いた。声も確かに理想化して一種の音楽の様である。姫の方は守安を見たか見ないかそれは分からない。多分は見なかったで有ろう。守安が見た時に姫の目は下に向いて居た。そうして長い緑の睫毛(まつげ)が眼の中の秘密を隠して居た。

 暫くして守安は又引き返してその前を通った。今度は姫も守安を見た。けれど別に不思議は無い。誰でも公園に入れば、自分の前を通る人に目を注ぐことは有るのだ。注いでも特に覚えているか覚えて居ないかは、それは別問題である。
 此方も特別にその前を通る訳では無い。前から自分の散歩場と決めて有って、いつもそこを通るのだから、いつもの通りに今も行きつ戻りつするのだ。

 けれど少しもいつもと違った所が無いでは無かった。いつもは散歩して此の白黒組より先に帰るけれど、此の日は帰らなかった。白黒組から遠く無い辺へ腰を掛けて、白黒組の帰る後まで帰らずに居た。

 そうして宿に帰って後も、公園の有様などが何だか心の底に残り、公園を散歩するのに、余り衣服を構わないのでは、人の目障りでは無いだろうか、などと言う様な事までも考えた。敢えて黒姫の為に考えるのでは無い。翌日は少し思案した上で、唯一枚の余所(よそ)行きを着て行った。もう余所行きの着物が有る丈の身分には為って居る。

 但し只(たっ)た一枚である。翌々日は思案せずに之を着た。靴も昨日より光って居る。是からは毎日之を着て出たが、或る日の事で有った。丁度守安が黒姫の前を通る時、黒姫が眼を上げた。上げたその眼が守安の眼と合した。唯だ少しの間では有ったけれど、守安に取っては生涯で有った。

 若し人の身に天然の神秘が籠って居る者とすれば、その神秘は唯眼のみから洩れるのでは無いだろうか。眼は力である。運命である。自分でどの様に力を込めたとしも、それでその神秘が人に見えると言う者では無い。自分では洩らすまいと思っても、洩れる時が有るのだ。洩れる場合が有るのだ。その場合は生涯に唯一度である。

 一度洩れれば後は神秘でも何でも無い。唯の眼だ。併しその洩れる唯一度のその場合に当たっては、魔の棲む淵もその深さを比べるに足りない。宛も真の暗夜に稲妻が光る様な者であって、唯一瞬の間だけれど、限り無い宇宙の秘が、忽(たちま)ちにその端倪(たんげい)《事の初めと終わり》を示すのだ。唯だ入り口を示すのだ。再び之を見ようと思っても、見る手だてが無い。

 神秘の戸は端倪を示したのみで直ぐに閉じる。真に電光の唯一閃は、清い清い心にのみある。特に女にある。女の生涯に唯一度あるのだ。若し真実此の電光に打たれた男子は、ここが生涯の危機である。或いは恋の奴隷と為って苦難の底、汚辱の底に沈むのも是れ。或いは生まれ替わった人と為って、精神的に理想化するも是れ。殆ど人間の力で無い。人間以上なんだ。運命なんだ。

 是れを唯だ人為の事の様に思い、勉めれば出来ると心得て、既に神秘の去ったいつもの眼を以て、人を射やうとする者が男子にも在る女子にもある。紳士にも貴婦人にもある。之は唯だ媚を売る。愛を売ると言う者だ。鬼面人を驚かすと言う者だ。勉めれば勉める丈け理想化せずに俗化するのだ。醜いのだ。疑う者は世間を見よ。

 真に守安と黒姫との眼が、合して一と為った寸秒時が此の電光で有った。守安はその所を通り過ぎても、自分の身が地を歩んで居るか天を歩んで居るかを知らなかった。再び引き返して黒姫の前を通ったけれど、黒姫の顔を見ることが出来なかった。総身が震えて居た。



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