巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十一 白翁と黒姫 三 

 守安の生涯は、唯此の寸秒時の間に決まってしまった様な者である。運命である。但し善運か悪運か、それは分からない。分からないけれど確かにその身は運命の糸に縛られた。もう黒姫の傍を離れる事は出来ない。離れても黒姫の姿が心の底に歴々と宿って居る。夏蟲(虫)が燈火を慕う様に、唯だその傍へ引き付けられるのだ。唯だその姿が光明なんだ。黒姫の傍より外は世界が暗黒の様に感じられる。

 けれど彼れ、そう傍にまでは立ち寄ることが出来ない。今までは虚心平気で黒姫の前を行きつ戻りつしたけれど、今はそれが出来ない。唯だ心が後れるのだ。此後は公園へ行っても、成るべく腰を掛け、本などを開いて読む振りをして、実は黒姫を眺めて居た。本の文字など幾等見ても眼には入らないけれど、文字を見て居る間も、黒姫の一挙一動が、悉く我が心に映る様な気がするのだ。

 黒姫の方は何(ど)うで有ろう。守安が感ずる様に守安を感ずるだろうか。それは分からないけれど、確かに感ずるだろうと守安は感じて居る。何だか姫の白翁と話して居る様が、わざと此方へ顔の半面を見せて居る様に見える。ナニ見せて居るのでは無い。半面の見える様な所を選んで守安の方が据わって居るのだ。けれど顔の半面だけは確かに我に任せて有る。我が眺めるのを許して有ると、心無い事まで心有っての事の様に合点して唯だ嬉しい。

 或時、白翁が黒姫の手を引いて守安の前を通ったことも有った。是れは或いは守安の様子を疑い、試す積りで通ったのでは無いだろうか。けれど守安はそうとまでは思わない。何か無しに光明が我が傍へ近づく様に思い、殆んど本を持つ手が震えた。眼を上げると事も出来なかった。

 前を通る時に姫が何の様な顔をしたで有ろう。何でも守安の顔をジッと見たに違い無い。守安の顔が熱かった。見たとすれば何で見たのだろう。此方(こなた)が余り遠慮して控えて居るのを、恨んだのでは無かろうか。その恨みを眼に浮かべて、私に悟れと言ったのでは無かろうか。姫が立ち去った後までも、此の様な思いが守安の心には消えなかった。

 何(ど)うも白翁の様子が、守安を疑い始めた様にも見える。此の後は時々に場所を換える事もある。そうすると守安も場所を替える。少なくとも、姫の顔の半面は見える範囲を離れないのだ。自分の身が疑われて居るなどとは少しも思わない。又或時は翁と姫との去った後に、白い綺麗な半巾(ハンケチ)が落ちて居た。確かに姫が落としたのだろうと守安は思った。その実翁が落としたのだ。

 守安は熱心に之を拾った。その隅の方にUの字とF字を縫い着けてある。姫の手で縫ったのに違い無い。姫の姓名の頭字だろう。守安は此の半巾(ハンケチ)を自分の肌身から離さない様にした。是から翁の来るのが少し今までと違った。遅く来て早く帰る時も有る。早く帰れば守安も早く帰る。何うかすると姫を連れずに翁が唯だ一人来る時も有る。その様な時には守安は失望して直ぐに立ち去った。実に不心得と言う者だ。此の様な事をして何うして疑われずに居る者か。

 併し彼の不心得は是だけに留まらなかった。或る時思い余り、翁と姫との立ち去る後を尾(つ)けて行った。UFと言うのが姫の姓名の頭字だとは分かって居るけれど、もっとその上を知り度いのだ。尾けて行くと静かなドロス街の新しそうな下宿に入った。アア閑静な如何にも黒姫の居さそうな所だと彼は思った。こうなるともう公園で見る丈では物足りない。

 此の後は毎夜の様に姫の後を見送って、その宿の辺まで行って暫く徘徊した上で、立ち去る事とは成ったが、果ては是でも未だ物足りない。終に大胆にその入口の番人に向かって問うた。
 「今、ここに帰って来た白髪の紳士は下の座敷のお客ですか。」 
 番人は答えて、
 「イイエ、二階のお客です。」
 アア思ったよりは容易に聞き出すことが出来そうだ。守安は大胆に成って、
 「二階の奥の座敷」
 番人「イイエ、此の家は表座敷ばかりです。」

 守安「何をして居る方ですか。」
 番人「何にも成さらず、食うに困らない丈の財産の有る方でしょう。大して贅沢では有りませんが、貧民などには随分目を掛けてお遣りの様です。慈善家です。」
 守安「姓名は何と言うのですか。」
 それからそれと問い糺(ただ)すので番人が怪しんだ。
 「オヤ、貴方は探偵ですか。」


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