巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou86

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十六 四国兼帯の人 三

 文字を読む丈の教育を受けた娘が、この様な悲境に陥るとは、よくよくの事であると守安は少し心が動いた。
 娘は猶(なお)も自分の教育を誇る積りか、本を置いて、更に筆を取り上げ、
 「読むばかりで無く、書く事だって知って居ますよ。」
と言い、机上に有り合す白紙の表へ落書きした。

 その文句を見ると、矢張り境遇は境遇だけだ。
 「捕吏が来た。早くお逃げ」
と書いて有る。多分は昨夜霧の中で、妹と語って居た事が、まだ心に残っているのだろう。落書きにまで、ツイ此の様な文句が出るとは、愈々(いよいよ)持って憐れな次第だと、守安は此の様に思いつつ、昨夜拾った彼の手紙を包んだままで取出だし、

 「嬢さん、貴女に返す物が有りますよ。」
と言って渡した。
 嬢さんとは少し不似合いであるけれど、守安は是より外に、この娘を呼ぶ言葉を知らない。
 娘は受け取って、多少は顔でも赤らめるかと思ったら、そうでは無く全くの平気だ。
 「アア貴方が拾いましたか。不思議な縁ですねえ。是が有れば、阿父(おとっ)さんが余計に手紙を書く事だけ助かるのだ。」
と言いつつ包みを開き、中から一通を選(よ)り出した。それは特に守安の気に留まった、彼の慈善紳士へ宛てたのである。

 嬢「そうだ、そうだ。丁度今ならば、慈善紳士が娘と一緒に朝の説教を聞きに来る刻限だから、是を持って行って渡してやろう。」
と独語(ひとりごと)の様に言い、更に守安に向かい、
 「私共は一昨日から、一切れの麺麭(パン)さえ喫(た)べていないのですもの。グズグズして居ては歩けない様になってしまいます。」
と言い訳した。

 守安はその間に財布を探ってみたが、五フランの銀貨が一枚と外に少しの小銭がある許かりだ。直ぐにその銀貨を取り、
 「嬢さん、是は少しですが阿父さんへ、今の御手紙の返事です、」
と言って渡した。

 銀貨の光を見た時の娘の顔は、何とも言われない。全く電気が掛かった様である。
 「オヤ銀貨、銀貨、本当に五フランの。嬉しいなア。嬉しいナア」
と叫んで跳ね踊った。此の様子では、未だ容易に歩けない様には、成って了(しま)いそうには見えない。
 併し兎も角も、こうまでに喜ぶとは、何れほど久しく、銀貨に遠のいて居たかも察せられる。

 本当に小躍(こおど)りしつつ娘は立ち去ったが、やがて守安は朝の食事を済ませた後で、良く考えて見ると、何だか隣の部屋の四国イヤ五、六ケ国兼帯の人の事が気に掛かる。自分も貧乏では有るけれど、今では二日も三日も食わずに居ると言う程の事は無い。二年前にはその様な事も有ったけれど、有った丈に猶更(なおさ)ら人の苦しみが察せられるのだ。

 彼は極めて真面目な質である。全く真面目に考えた。紙の壁一重を隔てた隣同士で有りながら、今まで少しもその様子を知らずに居たのは、人情に背くのでは無いだろうか。尤も六ケ月前に二十円恵んで遣った事が有るとは言え、それは店立て《立ち退き》を食う場合と聞いたのだから、誰でもする当然の親切と言うに過ぎない。

 守安とも言う者が、イヤ誰も特別に守安と言いはしないけれど、ABCの仲間に入り、弱者の友を以て自ら居る者が、六ケ月前に僅かの金を与えたからと言って、今の難儀を知らない顔で過ごすと言う道は無い。兎も角も実際の有様が何の様であるか、それを先ず見届けるべきだと、こう思うが否や、彼は椅子を壁の所に寄せ、その上に伸び上がって、紙壁の破れから隣の部屋を窺(うかが)い見た。

 実に最適の物見櫓(やぐら)である。余り骨が折れずに隣の部屋の中が歴歴(ありあり)と分かる。
 吁(嗚呼)貧乏と言うのは、是ほど甚(酷)い事では無い。自分も貧乏はしたけれど、今もまだ仕ていけるけれど、こう見る影も無く穢(きたな)くは成らない。今来た娘は、或いは手紙を持って慈善紳士を尋ねてでも行ったのか、姿が見えない。後に残るのはその母と妹娘らしい。これは昨夜霧の中で見受けた一人だろう。

 腹が空いて立ち上がる力も無いと言う様に、寝台の下にしゃがんで居る。そうして部屋の一方の隅に、女の寝間着の、古い古い綿の出たのを着て、机に寄って手紙を認めて居るのが主人だ。髯茫茫と伸びて、年は五十から六十までだろう。

 人相は至って宜しく無い。何やら口に呟(つぶや)きつつ、考えては書き。書いては又考えるのは、確かに新工夫の無心状で、何しても読む人の眼に、涙を浮かばせなければ成らないと言う決心で、掛かって居るらしい。

 「エエ、金持ちと言う者は癪に障る無神経だ。」
と、彼は呟いて筆を置き、口に咥(くわ)えて居る煙草を一吸い吸った。食う物は無くとも煙草だけは止められないと見える。手紙に嫌な臭いの浸み込んで居たのも是で分かる。そうして彼が再び筆を取り上げる所へ、入口の戸を荒く開いて、外から躍るように入って来たのは先程の娘である。

 「阿父(おとっ)さん、阿父さん、到頭毎(い)つも言う慈善紳士を捕まえましたよ。」
 捕まえたとは何と言う言葉だろう。父は驚いて起(た)ち、
 「何だと、慈善紳士、慈善紳士とはあのヂャック寺へ毎日来ると言う年取っーーーた。」
 娘「そうです。今朝丁度、朝のお勤めを聞きに来る頃だと思い、手紙を持って行きましたら、娘と共に寺から出ようとする所で、直ぐに私はあの手紙を渡しました。」

 父「渡したら直ぐに読んだか。」
 娘「ハイ、読みました。本当に慈善紳士ですよ。読むと悲しい様な顔をして、扨(さ)て扨て気の毒な事だ。では直ぐに行って見ようと言いました。」
 父は聊(いささ)か慌てた様子で、

 「〆た。愈々来て呉れるな。サア、サア、早く部屋の内を飾り立てなければ。成る丈貧乏らしく見える様に。贅沢な品は皆隠してしまって。」
と言った所で、何の様な贅沢の品が有ろう。此の上貧乏らしくは飾り様が無い。けれど父は叫んだ。
 「サア暖炉の火を消せ、火を消せ。」
 成ほど火さえも贅沢の一つである。


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