巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou88

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十八 四国兼帯の人 五

 今まで守安が黒姫の行方を尋ねたのは何れほどだろう。到底分からないと絶望して居たのに、それが隣の部屋へ導かれて来たとは、意外とも有難いとも言葉には尽くせない。見れば昨年見た時とは又一層美しさが増して、体中から豪光が射して居る様に見える。何だか暈(まぶ)しい様な気がして守安の眼は眩(くら)んだ。そうして胸には波が打った。
 
 黒姫の手を引いて居る白翁は、片手に持つ包みを先ず床に置き、部屋主(あるじ)である四国兼帯の人に向かって、
 「貴方がアノー」
と言ったが名前を忘れたと見え少し淀んだ。部屋主は直ぐに床の上に身を投げて、
 「オオ慈善紳士、慈善淑女、此の穢い所へ良く御出で下されました。大恩人、命の親」
と叫び、更に立ち上がって、一寸と小声で自分の娘に、

 「アノ手紙に記した俺の名は浜田と有ったかなア」
と問い再び白翁に向かい、
 「ハイ私が手紙を差し上げました浜田です。御覧の通り零落した俳優です。」
と自分を紹介した。余り沢山名が有るから、此の紳士へ何の名を用いたのか確かと覚えて居ないのだ。白翁は包みに指さしつつ、

 「如何にもお手紙よりも酷い有様です。是れはホンの寒さ凌(しの)ぎに毛布(けっと)と一二枚の古着です。」
 四国兼帯の人は、何しても品物の外に現金を貰わなければ成らない決心だと見え、
 「全くお話には成りません。此の寒いのに炭も無く、窓の硝子(ガラス)が割れて居ても、硝子屋を呼ぶことが出来ません。有るべき者が無いばかりに。」
と言い、更に寝て居る妻の方を見て、

 「妻もあの通り長の病気で、ナニ医師に掛ければ直りましょうが、売薬さえも呑ませる事が出来ませず、有るべき者が無いばかりに、」
 彼は全く泣いて居る。有るべき者が無い代わりに、有るべからざる偽りの涙が有るのだ。余程白翁は感動した様である。白翁よりも黒姫は又より一層感動した。彼はここぞと見て、

 「有るべき者の無いほど辛いことは有りません。世間からは見捨てられます。是と言うのも余り私が正直すぎる為だと常々妻は申しますが、正直過ぎると天道までもお見捨て為さるのでしょうか。娘はあの通り工場の機械に手を切られて、今まで得た僅かばかりの日給も取れませず、人様にお情けを乞う事は、恥ずかしくて成りませんけれど、有るべき者が無ければそれも致し方が有りません。

 慈善紳士、慈善淑女、私共親子の者は、此の家に居てさえ、此の通りの有様ですのに、もう此の家に居る事さえ出来ません。此の寒いのに、此の家を叩き出される事に成って居るのです。」
 白翁「それは又何う言う訳で。」

 四国兼帯の人「何う言う訳かと言うと、家賃も半年から溜まり、先日既に家主(いえぬし)から店立(たなだ)て《立ち退き》を言い渡されまして、此の頃では毎日毎日矢の催促です。昨日の事ですが、今夜の八時まで待って呉れとヤッと言い延して置きましたが、今夜はもう言い訳の仕様も無いのです。と言って病人などを連れ、此の寒空に軒下で寝る事は出来ませず、首でも縊(くく)って死に度い様な境遇です。」

 真に彼は役者である。言葉に非常に悲し気な抑揚が有って、白翁よりもを痛く痛く黒姫の心の底を搔き乱した。姫は宛も
 「何うか救うてお遣り成さい。」
と言うように白翁の手を握り堅(締)めた。翁は
 「イヤ聞けば聞く程気の毒な境遇だ。何れほど有れば店立てが弛(ゆ)るみますか。」

 四国兼帯の人「溜まって居るのは六十円ですが、三十円も有りますれば一時だけは。」
 翁は財布を探ったが、
 「イヤ生憎、買い物の為持ち合わせが無くなった。残って居るは唯是だけです。」
とて五円の銀貨を投げ与え、
 「その代わり、今夜六時に私が出直して来るとしよう。その時に六十圓だけ持って来て進ぜるから、それまでは先ず此の銀貨で炭でも買って暖かくするが好い。」

 部屋主は床に頭を擦り附けて、
 「余り勿体なくて御礼の言葉が有りません。」
と言って彼の銀貨を拾いながら、下から白翁の顔を見上げたが、その眼に一種異様な光が現れた。彼は確かに白翁をば、今初めて逢う人では無いと思ったらしい。そうして更に黒姫の顔をも見た。彼の眼は益々光った。

 彼は暫(しば)しの間、自分の打ち驚く顔色を、悟られ無い様にしようと思う様に、又首を垂れたが、また再び見上げた時は、確かに彼の心に一種の思案が定まったらしい。唯だ嬉しさが見えるのみで、何の異様な色も示さなかった。彼は更に低頭して、宛も念を押す様に、
 「イエもう六十円で無くても、三十円で無くても、幾等でも宜(よろ)しゅう御座います。晩の六時に貴方がお出で下さって、一言でも家主へ何とか仰って下されば、それ丈で又幾日か猶予して呉れましょう。私し共はお金も有難いのですが、言葉だけで沢山です。」

 有るべき者が無いばかりにと繰り返して居た先程の口調とは少し違う。何が何でも彼は、今夜もう一度此の人に来て貰わなければ成らないと、決心したらしい。


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