aamujyou89
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
八十九 四国兼帯の人 六
此の四国兼帯の人が果たして白翁を知って居るのだろうか。
兎も角も白翁は再び晩の六時に来ると約束した。そうして別れを告げて去るに臨み、自分の長い外套を脱ぎ、
「兎も角も寒さ凌(しの)ぎに之を」
と言って四国兼帯の人に与えつつ、黒姫の手を引いて立ち去った。四国兼帯の人は、礼を言い送って出た。
此方(こちら)から覗いて居た守安は、黒姫の去ると共に、世が闇と為った様に感じた。今分かれては再び何所で逢われると言う当は無い。何が何でも後を尾けて行き、その住居を見届けなければと、去年の失敗に懲りもせず、直ぐに部屋を出て二階を降り、戸口まで行って見ると、翁と姫とは待たせて有った馬車に乗り、立ち去る所である。まさか馬車の後を徒歩で何所までも追う訳には行かない。それに雪が降り始めて、町の大地が早や白く成って居る。けれど恐れぬ。そのまま駆け出して町の角まで行くと、幸いに通り合わす空の馬車に逢った。
直ぐに呼び止めて、
「あの馬車の後を見え隠れに随(つ)いて行って呉れ。」
と言うと、馭者は守安の身姿(みなり)を見て、
「一時間一円です。」
守安「宜しい」
馭者「前金で戴きましょう。」
守安は衣嚢(かくし)を探ったが、先刻五円あったのを隣の部屋の娘に投げ与えたから、有るのは端下の銭のみである。
「賃銭は帰って来た上で遣るよ。」
馭者は嘲(あざ)笑って、
「厭(いや)な事だ。」
の一言を残して去って了(しま)った。
悔しくは思っても争いも出来ない。猶(なお)もその足で必死に走って追ったけれど、間も無く翁と姫との馬車を見失った。
もう仕方が無い。喘(あえ)ぎ喘ぎ悄々(すごすご)帰って来ると、宿の横手の路地の中で、彼の四国兼帯の人が、白翁に貰った外套を身に纏(まと)い、雪に降られつつ一人の破落戸(ごろつき)の非常に人相の悪い男と、密々(ひそひそ)語り合って居るけれど、何事かの相談だろうと、別に怪しむ程の心も無く、見流して内に入り、部屋に帰って、独り情け無く思案して居ると、隣の部屋の娘が入って来た。
此の娘に五円遣ったばかりに、黒姫の後を追うことが出来なかったと思えば、今更の様に腹立しい。
「貴方は何の用事です。」
と咎める様に問うた。
娘「別に用事でも有りませんが、貴方は大層お鬱(ふさ)ぎだ事ねえ。何か私に出来る事でも有ればお話し成さいな。」
言葉は乱暴であるけれど、心の中は守安を慰め度い親切で来たのである。或いは親切よりも以上の心が有るかも知れない。此の様な言葉が若し黒姫の口から出たなら何うだろう。そのまま有難さに打たれて気絶するかも知れない。けれど相手が違うだけに、此の親切以上と見える言葉が唯腹立たしい。
「何も貴女に話す事は有りません。」
娘は恨めしそうに守安の顔を見て、
「その様に言わなくても好いのに、貴方の心の中を探ろうと言うのでは無し。親切に言うのだワ、こう見えても幾等か貴方の役に立ちますよ。用事を言い附けて使って御覧なさい。言い附かった通りにしますワ、毎(い)つも父の為に、慈善紳士や貴婦人を見付けて来るのも皆私ですの。」
此の言葉に守安は思い附いた。此の女に黒姫の住居を探らせれば好い。
「では頼む事が有りますよ。」
と彼は言った。娘は嬉しそうに、
「ソレその様にお友達の様な言葉を掛けて下さい。何れほど私は嬉しいか知りませんよ。」
守安「嬉しいの、嬉しく無いのと、その様な事は言わずに、私に或人の住居を探し出して呉れませんか。」
娘「何でも無い事。誰の住居です。」
守安「今貴女の部屋へ来た老人と娘が有りましょう。」
娘は少し不興気に、
「オヤあの別嬪(べっぴん)の住居をですか。貴方はあの方を知って居ますか。」
守安「ナニ女の住居では無く白髪の爺さんの住居を。」
娘は
「爺さんの住居が分かれば、別嬪の住居が分かるでは有りませんか。」
守安「探して呉れますか。呉れませんか。」
娘「白髪頭だの娘だのと、アア貴方は私の部屋を覗いて居ましたね。」
守安は顔を赤くした。
娘「ナニ覗くのはお互いよねえ。探して上げましょう。あの別嬪の住居を。」
守安「何うか爺さんの住居を探して下さい。そうして分かったら。」
娘「ハイ分かったら直ぐに貴方へ知らせますよ。あの別嬪の住居をねえ。」
と揶揄(からか)う様に言って立ち去った。
暫くすると隣の部屋から、彼(あ)の四国兼帯の人の声が聞こえた。
「ナニ俺は確かにあの白髪頭を知って居るよ。」
守安は堪(こら)え切れずして再び椅子に登り、隣の部屋を覗いた。隣の部屋主(あるじ)が白翁を知って居ると言うのだろうか。そうすれば自然に黒姫の身分などを聞く事が出来るかも知れない。
部屋の有様は、先程と少し違い、暖炉に火が燃えて、食事をした跡も見える。部屋主は部屋の中央に立ち妻に向かい、
「決して俺の眼に見損じは無い。そうだもう八年前だけれど、同じ顔だ。同じ白髪頭だ。その時から俺は、何うしても合点が行かなかった。今度逢ったら、今度逢ったらと思って居たが、八年目に到頭廻り逢った。」
と言いつつ傍に娘の居るのを顧み、
「お前達は午後の五時まで外で遊んで来い。五時前に帰ると承知しないよ。五時に成って帰らないと承知しないよ。」
厳重な命令で追い出すのは、何か白翁に対して、企(たくら)んでいるのでは無かろうか。娘二人は唯唯(ゆいゆい)《はいはい》として出て行った。
妻「お前の眼力は豪(えら)いねえ。けれど私には分からないよ。」
部屋主「分からない事が有るものか。お前はアノ娘の顔を見たか、娘の。」
妻「あの姫様のお顔、見たよ、見たけれど。」
部屋主「見たけれど思い出さなかったのか。無理も無い。余(あんま)り変わり様が酷いから、俺だって終わりの頃に成ってやっと気が付いたもの。驚いたよ。実に驚いたよ。けれど喜べ、もう貧乏をするに及ばないぞ。晩方までに残らず手配の附く様に運んで置いたから。今夜六時にあの白髪頭がここへ来て見ろ、アア、アア、ヤッと金の蔓を捕まえた。場合に依っては仕方が無い、荒療治よ。」
事柄は分からないけれど、兎に角、聞き捨て難い不穏な言葉であると守安は此の様に感じた。
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