巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou89

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

since 2017.6.28


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十九 四国兼帯の人 六

 此の四国兼帯の人が果たして白翁を知って居るのだろうか。
 兎も角も白翁は再び晩の六時に来ると約束した。そうして別れを告げて去るに臨み、自分の長い外套を脱ぎ、
 「兎も角も寒さ凌(しの)ぎに之を」
と言って四国兼帯の人に与えつつ、黒姫の手を引いて立ち去った。四国兼帯の人は、礼を言い送って出た。

 此方(こちら)から覗いて居た守安は、黒姫の去ると共に、世が闇と為った様に感じた。今分かれては再び何所で逢われると言う当は無い。何が何でも後を尾けて行き、その住居を見届けなければと、去年の失敗に懲りもせず、直ぐに部屋を出て二階を降り、戸口まで行って見ると、翁と姫とは待たせて有った馬車に乗り、立ち去る所である。まさか馬車の後を徒歩で何所までも追う訳には行かない。それに雪が降り始めて、町の大地が早や白く成って居る。けれど恐れぬ。そのまま駆け出して町の角まで行くと、幸いに通り合わす空の馬車に逢った。

 直ぐに呼び止めて、
 「あの馬車の後を見え隠れに随(つ)いて行って呉れ。」
と言うと、馭者は守安の身姿(みなり)を見て、
 「一時間一円です。」
 守安「宜しい」
 馭者「前金で戴きましょう。」

 守安は衣嚢(かくし)を探ったが、先刻五円あったのを隣の部屋の娘に投げ与えたから、有るのは端下の銭のみである。
 「賃銭は帰って来た上で遣るよ。」
 馭者は嘲(あざ)笑って、
 「厭(いや)な事だ。」
の一言を残して去って了(しま)った。

 悔しくは思っても争いも出来ない。猶(なお)もその足で必死に走って追ったけれど、間も無く翁と姫との馬車を見失った。
 もう仕方が無い。喘(あえ)ぎ喘ぎ悄々(すごすご)帰って来ると、宿の横手の路地の中で、彼の四国兼帯の人が、白翁に貰った外套を身に纏(まと)い、雪に降られつつ一人の破落戸(ごろつき)の非常に人相の悪い男と、密々(ひそひそ)語り合って居るけれど、何事かの相談だろうと、別に怪しむ程の心も無く、見流して内に入り、部屋に帰って、独り情け無く思案して居ると、隣の部屋の娘が入って来た。

 此の娘に五円遣ったばかりに、黒姫の後を追うことが出来なかったと思えば、今更の様に腹立しい。
 「貴方は何の用事です。」
と咎める様に問うた。
 娘「別に用事でも有りませんが、貴方は大層お鬱(ふさ)ぎだ事ねえ。何か私に出来る事でも有ればお話し成さいな。」

 言葉は乱暴であるけれど、心の中は守安を慰め度い親切で来たのである。或いは親切よりも以上の心が有るかも知れない。此の様な言葉が若し黒姫の口から出たなら何うだろう。そのまま有難さに打たれて気絶するかも知れない。けれど相手が違うだけに、此の親切以上と見える言葉が唯腹立たしい。
 「何も貴女に話す事は有りません。」

 娘は恨めしそうに守安の顔を見て、
 「その様に言わなくても好いのに、貴方の心の中を探ろうと言うのでは無し。親切に言うのだワ、こう見えても幾等か貴方の役に立ちますよ。用事を言い附けて使って御覧なさい。言い附かった通りにしますワ、毎(い)つも父の為に、慈善紳士や貴婦人を見付けて来るのも皆私ですの。」

 此の言葉に守安は思い附いた。此の女に黒姫の住居を探らせれば好い。
 「では頼む事が有りますよ。」
と彼は言った。娘は嬉しそうに、
 「ソレその様にお友達の様な言葉を掛けて下さい。何れほど私は嬉しいか知りませんよ。」

 守安「嬉しいの、嬉しく無いのと、その様な事は言わずに、私に或人の住居を探し出して呉れませんか。」
 娘「何でも無い事。誰の住居です。」
 守安「今貴女の部屋へ来た老人と娘が有りましょう。」
 娘は少し不興気に、
 「オヤあの別嬪(べっぴん)の住居をですか。貴方はあの方を知って居ますか。」
 守安「ナニ女の住居では無く白髪の爺さんの住居を。」

 娘は
 「爺さんの住居が分かれば、別嬪の住居が分かるでは有りませんか。」
 守安「探して呉れますか。呉れませんか。」
 娘「白髪頭だの娘だのと、アア貴方は私の部屋を覗いて居ましたね。」

 守安は顔を赤くした。
 娘「ナニ覗くのはお互いよねえ。探して上げましょう。あの別嬪の住居を。」
 守安「何うか爺さんの住居を探して下さい。そうして分かったら。」
 娘「ハイ分かったら直ぐに貴方へ知らせますよ。あの別嬪の住居をねえ。」
と揶揄(からか)う様に言って立ち去った。

 暫くすると隣の部屋から、彼(あ)の四国兼帯の人の声が聞こえた。
 「ナニ俺は確かにあの白髪頭を知って居るよ。」
 守安は堪(こら)え切れずして再び椅子に登り、隣の部屋を覗いた。隣の部屋主(あるじ)が白翁を知って居ると言うのだろうか。そうすれば自然に黒姫の身分などを聞く事が出来るかも知れない。
 部屋の有様は、先程と少し違い、暖炉に火が燃えて、食事をした跡も見える。部屋主は部屋の中央に立ち妻に向かい、

 「決して俺の眼に見損じは無い。そうだもう八年前だけれど、同じ顔だ。同じ白髪頭だ。その時から俺は、何うしても合点が行かなかった。今度逢ったら、今度逢ったらと思って居たが、八年目に到頭廻り逢った。」
と言いつつ傍に娘の居るのを顧み、
 「お前達は午後の五時まで外で遊んで来い。五時前に帰ると承知しないよ。五時に成って帰らないと承知しないよ。」

 厳重な命令で追い出すのは、何か白翁に対して、企(たくら)んでいるのでは無かろうか。娘二人は唯唯(ゆいゆい)《はいはい》として出て行った。
 妻「お前の眼力は豪(えら)いねえ。けれど私には分からないよ。」
 部屋主「分からない事が有るものか。お前はアノ娘の顔を見たか、娘の。」
 妻「あの姫様のお顔、見たよ、見たけれど。」

 部屋主「見たけれど思い出さなかったのか。無理も無い。余(あんま)り変わり様が酷いから、俺だって終わりの頃に成ってやっと気が付いたもの。驚いたよ。実に驚いたよ。けれど喜べ、もう貧乏をするに及ばないぞ。晩方までに残らず手配の附く様に運んで置いたから。今夜六時にあの白髪頭がここへ来て見ろ、アア、アア、ヤッと金の蔓を捕まえた。場合に依っては仕方が無い、荒療治よ。」

 事柄は分からないけれど、兎に角、聞き捨て難い不穏な言葉であると守安は此の様に感じた。



次(九十)へ

a:28 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花