巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou90

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   九十 四国兼帯の人 七

 「荒療治」などとは言葉だけでも不穏である。良くはその意味が分からないにもせよ、白翁と黒姫の身に係る事であることは明白だ。
 暫くして妻は問うた。
 「ではお前、本当に姫様を知って居るの。何うして。お聞かせな。」
 嗚呼、黒姫の事の分かる時が来たのだと、守安は総身の精神を耳に集めた。四国兼帯の人は、少し気を揉(も)ませる様に、

 「お前の気の附かないのを、易々と言って聞かせるのは勿体ないなア、何しろ千円何万円に成るかも知れない種だからなア」
 妻「では私も姫様を知って居るの。」
 部屋主(あるじ)「知って居無くてどうする。俺よりはお前の方が良く知って居る筈だ。」
と言いつつ妻の耳に口を寄せた。

 何で細語(ささ)やくのだろう。誰も聞いては居ないのだから、通例の声で言ったって好さ相な者だと、此方(こちら)の守安は腹立たしい程に感じた。けれど壁に耳ありと言うことは、大抵の悪人が心得て居る。現に守安自身の耳が壁に附いて居るでは無いか。やがて部屋主(あるじ)が細語(ささや)き終わると、妻は発狂もし兼ねない程の様子で、
 「エ、エ、エ、エ」
と驚き叫んだ。

 部屋主「そうだよ、確かにあの児だよ。」
 あの児、あの児、あの児とは何の児だろう。妻は部屋中の埃(ごみ)を吹き飛ばす程に嘆息して、
 「そうかねえ」
 部屋主「そうさ、確かだよ。良く先アあの様な美人に成ったなア。」
 一時の驚きが聊(いささ)か鎮まると共に、妻は漸く腹立たしい色を浮かべて立ち、

 「エエ悔しい、お前余り悔しいぢゃ無いか。あの児があの様に成長して絹の着物を着て、ザッと見積もったとて、身姿(みなり)に二百円(現在の二百万円以上)は掛かって居るよ。黒い見栄えのしない服だけれど、大抵の財産では真似も出来ない。お前何うかしてお呉れ。内の絵穂子麻子(イポニーヌ、アゼルマ)は靴さえも買えないのに、あの児があの様に立派に成ったとは、私悔しくてもう夜も寝られないわ。今度ここへ来れば叩き殺して遣り度い様だ。」

 全く叩き殺しもしそうな剣幕である。部屋主は却(かえ)って満足の体で、
 「そうだそうだ。お前がそれ位に思うなら事がし易い。ナニあの児に罪は無いさ。けれどあの白髪頭め、余り人を馬鹿にしやがる。八年目の今日と言う日に、此の部屋へ来る様に成ると言うのも、未だ俺の運が強いのだよ。

 何でも金の中に転がって居るに違いないから、今夜六時に来て見るが好い、俺はもう、それそれ同類を集める様に用意を整いて来てあるから、少なくとも一人頭に千と言う金を取らなければ。
 俺ももう取る年だ。早くたんまりとした仕事をして、自分も楽をし、お前にも娘らにも貧乏と言う事を忘れさせて遣り度いワ。今夜の六時丁度。幸いなことに隣の部屋の若いのは先刻(さっき)出て行った様だから、外で夕飯を喫(た)べ夜の十一時迄は帰らないだろう。

 下の婆もその刻限には洗濯屋へ行き、帰れば直ぐに大鼾(おおいびき)で寝るのだから、何から何までお誂え向きに出来ている。運が向いて来ると此の様な者だよ。併し俺はもう一度、外に出て来なければ成らない。外に出る事の出来るのも、あの白髪頭が此の外套を置いて行って呉れたお陰だ。彼奴(きゃつ)め自分で自分の穴を掘った。」

 人間だか獣だか分からない様な顔をして笑い、間も無く外へ出て行った。
 何が何でも白翁と黒姫の身に、一方ならない大事が湧きつつ有るのだ。守安は胸を鎮める事も出来ずに思案した。此の様な恐ろしい秘密を、私が聞き込む様に成るのも、天が私に黒姫を助ける役目を授けたのかも知れない。

 今夜黒姫は来ないだろうけれど、兎に角白翁だけは事に依ると命までも取られる事に成るかも知れない。と言って何うすれば助ける事が出来るだろう。白翁に知らせて遣るには、住居が分からず、今は早や午後の一時で、五時まで四時間の中に尋ね出される筈は無い。アア警察の助けを乞う以外は無い。

 彼は直ぐ警察へ行った。そうして弁護士と言う名札を出して署長に面会を求めた。署長は居ないからと言って代理が出た。その人物を見ると、殆ど四国兼帯の人にも劣らないほど恐ろしい相好《人相》だ。けれど荒仕事に当たるには丁度屈強の人らしい。守安は喜んで、自分の知る一部始終を語り、
 「何うか然るべくお手廻しを。」
と切に乞うた。警官は聞き終わって、

 「オヤあの家か、そうすると隅の方の広い座敷だな。」
 守安「貴方は良く御存知と見えますね。」
 警官「そうと見える。何しろ丁度幸いだ。あの辺には質の悪い破落戸(ゴロツキ)や罪人の上りが徘徊して、何うか折が有れば主(おも)立つ者を一網に召し取り度いと思って居た。けれど娘二人に門口の張り番を為(さ)せると有っては、容易に中へ入り込めないナ。此れは少し困ったなア。外の手配は何うでも附くが。」
と言って暫(しば)し考え、

 「アア貴方が弁護士なら手伝って戴き度い。何うか貴方は今仰った壁の穴から、油断なく見張って居て下さい。私が一丁の拳銃(ピストル)を貸して上げますから、愈々(いよいよ)と事が熟した所で、一発合図をして下されば、直ぐに私が踏み込みます。」
 守安は少しも危険とは感じない。却(かえ)って白翁を救うのに自分も多少の力を加えるのが嬉しい。

 「心得ました。喜んで勤めましょう。」
 警官「けれど慌てては決していけませんよ。余(あんま)り早く合図をすると、少しも犯罪の証拠が揃わない中に踏み込む様な事に成ります。そう成っては却って私共の落ち度に成るから、愈々ここが最後だ、もう一刻も油断が出来ないと言う時に成って、初めて合図する様に。」

 守安「心得ました。」
 警官「イヤ、弁護士ならば、何の様なのが有効の証拠と言う事は、私の言う迄も無くお分かりでしょう。」
 守安「分かって居ます。充分彼が証拠を作る迄は、決して合図を仕ませんから、その代わりお手配は落ち度無く」
 警察官「宜しい」

 守安は漸く安心して、合図用の拳銃一丁を受け取って立ち上がった。警官は念の為と言う風で、
 「イヤ、若し六時までに何か危険が有ると見たなら、直ぐに此の署へ来て私をお尋ね下さい。巡査監督官の蛇兵太(じゃびょうた)と聞けば私ですから。」
 蛇兵太、蛇兵太、名前からして強そうだと守安は感じた。ナニ強そうな許りでは無い。



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