巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou91

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   九十一 四国兼帯の人 八

  蛇兵太とか言う警官から、合図の為の拳銃(ピストル)を受け取って、守安が我が宿に帰ったのは早や午後の五時過ぎである。
 彼は隣室の人に成る可く悟られない様にと思い、極めて静かに二階へ上り、自分の部屋へ入ったが、何うしたのか、隣の部屋の静かな事は、殆ど誰も居ないかと怪しまれる。

 ナニ居ないのでは無い。先刻外出した部屋主(あるじ)が未だ帰らない許りで、妻も子も皆居るのだ。居るけれど、今にその部屋で、何か容易ならない事の始まると言う事が、今朝からの様子で察せられるので、自ずから心が沈み、口数も聞かない事に成るのだ。

 幾等悪人の妻でも、女は女だけである。今の中にと守安は、密かに雪に濡れた靴を脱ぐやら、外套の始末をするやら、愈々(いよいよ)大事の任務に取り掛かる容易を始めた。
 真に大事の任務である。彼が旨く勤めると否とでは、事に由ると人の一命に拘わるかも知れない。 人も人、黒姫の父なんだ。仕損じて為るものか。

 その中に廊下から聞こえる足音と共に、隣の部屋主(あるじ)四国兼帯の人が帰った様子だ。何と言う名で有ったかと、今朝受け取った手紙の署名を考えて見ると、アア思い出した。長鳥と言った。色々の名を用いて居ても、多分は長鳥が本名だろう。何私に向かって嘘の名を用いる必要は無いからなどと考える間に、隣の部屋は部屋主の帰ると同時に、少し騒々しくなった。

 「阿父(おとっ)さんの言った通り、五時よりも、早くも無く遅くも無く帰って来たよ、私は。」
と言うのは姉娘で、
 「阿父さん私しもよ。」
と続けたのが妹娘だ。

 「此の雪に寒かっただろうねえ。火を起こして有るからお暖(あったま)りな。」
と言うのは無論妻、少し夫に活智(いくじ)が有りそうに見えて来たから、機嫌を取る気にも成ったと見える。
 「そうか。言い付けた時間通りに帰って来た褒美には、今少しすると、最と辛い役を言い付けて遣るから驚くな。」
とは長鳥が娘達に向かって言うのだ。

 姉妹「何んな用だか知らないけれど、外へ出るのは御免だ。」
 姉妹「露国(ロシア)革(皮))の靴でも買って呉れるなら好いけれど、雪の上を跣足(はだし)も同様だもの。」
 長鳥「言うな、言うな、明日の晩には二人ともお姫様だ。芝居へも連れて行って遣る。」

 姉妹「オヤそれほど儲かる事があるの。」
 姉妹「それなら格別だけれど、ねえ姉(ねい)さん。」
 「サ、もう五時半だ。隣の室には誰も居ないだろうな。」
とは長鳥の声。

 妻「先(さ)っき出て帰りや仕(し)ないよ。もう夕飯の時刻だから、お前の云った通り今夜の十一時までは大丈夫よ。」
 長鳥「でも念の為だ。見届けて来い。娘」
 此の使いには
 「私が行くよ。」
とて姉が妹を押し退けて立ったらしい。姉は守安の部屋へ来るのが嬉しいのだ。守安は見られては大変と、慌てて寝台の下に隠れた。」

 やっと隠れ終わった所へ姉娘が、手に蝋燭を以て入って来た。別に部屋の中を見もせずに、一直線に小さい鏡の掛かって居る柱の許へ行った。此の鏡が蝋燭を持って来た所以なんだ。そうして背伸びして自分の顔を照らし、鼻歌を謡(うた)いつつ手の掌(ひら)で頭の毛を撫でた。寝台の下の守安は余り安心で無い。若し呼吸でも聞き付けられては大変だ。

 自分の美しさに満足したか、ナニ満足の出来る美しさでは無いけれど、ニッと笑んで見て、今度は窓の所へ行き、戸を開けて外を眺め、普段の疎(そそ)っかしい様な口調で、
 「何と言う雪だろう。靴の無い者には此れほど嫌な者は無い。」
と呟き再び鏡の所へ来て歯の白さや横顔などを眺め初めた。

 早く立ち去って呉れれば好いと、守安が忌々(いまいま)しく思って居る中に、教会堂の方から五時半を打つ時計の音が聞こえた。
 「何をして居るのだ。見届けたら早く帰るが好い。」
 と父が壁を隔てて怒鳴った。
 「ナニ詳しく見届けて居るのだよ。寝台の下や何か全然(すっか)り見なければいけないから。」
と平気で答え、実は自分の顔より外は何者をも見ずに立ち去った。

 父は直ぐに二人へ言い附けて居る。
 「好いか此の役目が旨く行けば、明日はお姫様だぞ。露国(ロシア)革の靴も買って遣るよ。二人とも外へ出て右左に分かれ、姉は此の町の東の角、妹は西の角へ行って見張るのだ。こっちから好しと言う知らせの行くまで、」

 姉妹「何時まででも」
 姉妹「見張って何うするの。」
 父「馬鹿な奴だ。見張ると言えば毎(い)つもの通りさ。巡査か探偵らしい奴が此方へ来ると思えば、直ぐに馳せ附けて知らせるのさ。」
 両女とも
 「明日は靴、明日は靴」
と言いつつ立ち去った。

 後で長鳥は妻に向かい、
 「お前にも用事が有る。今に白髪頭が来るからな、直ぐにお前は下へ降りて、入口に居る馬車を帰すのだよ。必ず馬車で来るに違いないから。」
 妻「何して帰すの。」
 長鳥「馬鹿な奴だ。旦那が少しお手間が取れるから、帰して呉れと仰ったと言い、馭者に賃銭を払えば好いのさ、少し余分に。」

 妻は笑った。
 「余分にとて何のお銭(あし)で。」
 長嶋「言うな、言うな。俺だって大仕事が眼の前へ降ってくれば、融通が聞くワ、今日は手伝いに来る奴らから少しづつ掻き集めて、随分買い物をしたけれど、未だ残って居る。ソレ之を。」
と言ったのは、金を取り出して渡したものだろう。

 妻「分かったよ。けれど相棒はもう。」
 長鳥「その様な事に失念(ぬかり)は無い。丁度の時に皆此の部屋へ紛れ込む事に成って居る。」
扨(さ)ては大勢でかかる仕事と見える。
 成るほど、
 「荒療治」に違い無い。


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