巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou96

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   九十六 陥穽(おとしあな) 四

 守安の様な辛い場合が又と有ろうか。人を助ける義務を持って居て、其れを見殺しにしなければ成らない。唯一発の合図さえすれば直ぐに警官蛇兵太(じゃびょうた)が遣って来るのだ。来れば手鳴田等が捕らわれるのだから、白翁は助かるに決まって居る。イヤ蛇兵太が来て、果たして白翁が助かるだろうか、其れは疑問だ。けれど助かるべき筈なんだ。之を助ければ手鳴田は牢に入れられる。多分多くの旧悪も有りそうだから、事に由れば死刑とまで成るかも知れない。

 アア出来ない。出来ない。手鳴田を此様な目に遭わせる事は決して出来ない。唯、父の遺言を守らないのみで無い。全く反対の事をするのだ。自分の命を捨てても助けなければ成らない人を、却って酷い目に合せるのだ。幾等辛くても其れは出来ない。とは言え黒姫の父を見殺しに、之も人間として出来る事では無い。終に守安は何う決する。

 其れは扨(さ)て置いて、手鳴田は、凄まじい顔をして部屋の中を歩みつつ、白翁の何とか返事するのを待って居る。彼の眼は時々暖炉に注ぐのだ。暖炉の中には鉄の大鑿(おおのみ)が、火花の散る程に焼けて居る。場合に依れば之で白翁を攻める積りなんだ。白翁も部屋中を見廻し、九人の敵が銘々に手頃の凶器を持って居る様を見た上に、此の熱鉄をも見た。

 如何に勇者でも泰然としては居られない。静かであった彼の顔も何と無く騒ぎ始めた。其の騒ぐのを自ら押し鎮めようとする丈に、猶更(なおさら)苦心だろう。彼の口からは一言の返事も出ない。手鳴田は又彼の前に立った。そうして腹立たしさに我慢が出来ない声で、
 「サア、金の問題ですよ。金で済む事ですよ。息の根の通う中に返事を為さい。息が通わなく為っては返事し度くても無益です。返事が無ければ、先ず身動きの出来ない様に、縛ってからの事にしようか。」

 部屋の一方には、縛る為の縄なども用意が出来て居る。彼は其れを取る為にか、後を向いて部屋の彼方(あちら)へ行こうとした。
 唯僅かばかりの隙(すき)である。白翁は此の隙を利用して自分の身を助けようとした。全く此の僅かの時を取り逃がしては、又と身を助ける場合は来ない。彼は驚くべき早さと驚くべき力とを以て、テーブルを投げ飛ばし、椅子を蹴倒し、直ちに窓の戸に飛び附いた。其の業の見事なのには、部屋中の悪党共も、アッと驚いて、度を失う程で有った。

 見る間に翁は窓を開き、戸の外に身体半分を出した。アア彼は高い二階の窓から、路地へ飛び降りる積りなんだ。けれど彼の片足が未だ窓の枠に掛からない間に、之へ六人の男が取り縋(すが)って居た。之には敵(かな)う筈が無い。終に六人の力の為に窓から部屋の中へ引き戻された。七人目は手鳴田の妻で、雄牛の様な力を以て、両手で白翁の頭の毛を握った。其れでも白翁は起き上がったが、其の後の彼の働きは真に目覚しい者で有った。

 凶器を持った九人の相手に空拳のたった一人である。けれど翁は、誰の凶器も未だ自分の身に届かないうちに、固い拳で一人を叩き飛ばし、返す手で二人を打ち倒した。併し其の甲斐は無かった。多分彼は殺される覚悟だろう。死ぬ迄闘う外は無いと決心したのだろう。

 若しも此の時、手鳴田の号令が無かったなら、翁の頭は門八とやら言う男の鉄の棒の下に二つに砕ける所であった。手鳴田の声が部屋中に響いた。
  「傷を附けるな。傷を附けるな。未だ其奴に傷を附ける場合では無い。」

 此の様な物音を聞いて、未だ守安は耐えて居るだろうか。余り耐える力が有り過ぎるでは無いか。イヤ彼は耐えて居る訳では無い。
 「何うか父上、お許し下さい。」
と叫び、床の上の拳銃(ピストル)の所へ手を延した。けれど
 「傷を附けるな」
と言う手鳴田の号令が聞こえた為又考えた。

 何とか父の遺言と白翁の身体(しんたい)と両方を全うする工夫は無かろうかと。勿論其の様な都合の好い工夫は、夜の明けるまで考えたとしても、有る筈は無い。けれど工夫の出ない中は止むを得ず考えるのだ。

 終に九人が一人に勝った。或者は背後(うしろ)へ廻って白翁を抱きすくめた。或者は足を取った。間も無く白翁は九人の下に組敷かれて、其の手を背後へ捻じ廻された。こう成っては、抵抗するだけ損である。彼はもう尋常に大勢のするが儘(まま)に従って、犇々と括られテーブルの足へ縛り付けられた。一同は先ず顔を合わせた。

 甲「何と言う強い爺だ。」
 乙「イヤ強い許かりか、只者ぢゃ無いぜ。何うだ、窓へ搔き上った時の早さは。」
 此の時に及び、守安は再び立ち上がって壁の穴に目を附けた。覗いて居れば、白翁の危うさの一歩一歩迫るに連れ、自分の辛さを増す計りだけれど、覗かない訳には行かない。

 今までは唯驚きの余りに立ち上がる気力も無い程で有ったけれど、聊(いささ)か心が鎮まって、兎に角も覗いて居なければ、思案も工夫も浮かばないと思ったのだ。

 大将の位置に立つ手鳴田は、眼で一同を鎮まらせた上、白翁の前に立った。恰(あたか)も罪人を取り調べる裁判官の様である。何しろ相手は身動きの出来ない様にしたのだから、もう態度もズッと落ち着いて居る。彼は異様に丁寧な口調で、

 「貴方は窓から飛び出そうなど、お年寄りの身で余り乱暴ですよ。腰の骨でも砕ければ、何うなさる。ナニもうあの様な事を為さっていけません。私共が貴方を無事に返さないと言うのでは無い。
全く私共は円満に話を纏(まと)め、双方が笑って別れる事にし度いのです。貴方はもう、吾々の談判(交渉)に応じない訳には行かないでしょう。

 隠したとていけませんよ。貴方の身の上は略(ほぼ)分かりましたよ。貴方は此の様に酷い目に逢いながら声も立てず、通例の人なら我知らずに、
 「人殺し」とか「助けて呉れ。」とか大きな声を出す所ですのに、貴方は其れを成さらぬ。何故でしょう。

 声を立てれば表沙汰になり、警官も来れば裁判所へ出る事にも成る。貴方は確かに其れが恐ろしい。何か旧悪が有って、警官を恐れ、裁判をを恐れる暗い身なんだ。私共の請求に従うのが当然でしょう。こう見抜かれた上は仕方が無い。尋常に談判に応じなさい。」

 成ほど白翁は声を立てなかった。手鳴田等が警察官を恐れるべき筈であるのと同様に、翁も警察官を恐れる身分に違い無い。少しの間にこの様な事迄見て取る程の相手だから、到底翁は無事にここを立ち去る訳には行かない。


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