巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou97

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

  九十七 陥穽(おとしあな) 五
  
 真に白翁が警察を恐れる身分とすれば、彼は到底逃れる工夫は無い。手鳴田の手で運が尽きるか、警察の手で運が尽きるか、何方(どっち)にしても同じ事だ。
 手鳴田は語を継いだ。
 「私共は貴方を破産させようとは云わない。貴方の身代《財産》が何れほどだか知らないけれど、根こそぎ取るはの気の毒だから、二十萬法(フラン)で我慢しましょう。二十萬法出せば無事に娘の傍へ帰して上げます。

 否だ応だと言っても無益ですよ。貴方は声を立てる事の出来ない身分でしょう。其れでは誰も助けに来る者は有りません。たとえ又声を立てた所で、此の部屋からは戸外(おもて)へ聞こえるから同じ事です。尤も私共も長く貴方と押し問答は仕て居られない、早く返事を聞きましょう。サア二十萬法です。貴方に取っては僅かです。お出しなさい。お出しなさい。」

 白翁は返事をしない。直ぐに手鳴田は門八に向かい、
 「検査しろ。」
と命じた。門八は立って来て、白翁の衣服の隠し《ポケット》へ、悉(ことごと)く手を入れて、其の中を探ったが、一個の手巾(ハンケチ)と六円の金が有っただけだ。名刺一枚も出ない。手鳴田は金と手巾を受け取って自分の隠し《ポケット》に入れ、
 「何だ紙入れさえ持って居ない。銀行の通帳でも有るかと思ったのに、併しナニ、同じ事だ。こうしましょう。」
と言って又も白翁に向かった。

 「私の言う通りに手紙をお書きなさい。私の方では、或いは此の様な事かも知れないと思い、それぞれ手筈を定めて有りますから、貴方が手紙さえ書けば事が済むのです。」
 言いながら手鳴田は、自分が無心状を書くのに用いた紙墨筆を持って来て、白翁の前に差し付け、
 「サアお書きなさい。お書きなさい。」
と促した。白翁は何と言う豪胆だろう。呵々(かか)と笑って、

 「両の手を縛られて居る者が、何うして手紙を書くのです。」
 手鳴田「成ほど私が悪かった。門八、右の手を解いてやれ、右の手だけだよ。」
 直ぐに右の手だけ解き放なされた。手鳴田は紙を広げ、筆に墨汁(すみ)を含ませて、翁に持たせ、
 「サア、娘よと書き出すのです。」

 白翁は
 「娘よ」
の一語に聊(いささ)か驚き、手鳴田の顔を見た。けれど書くより外は無い。黙って書いた。
 手鳴田「直ぐに来たれ。急ぎの用事あり。此の手紙持参の人と共に馬車に乗れば好い。余は切に待てり。安心して来たれ。イヤ安心して来たれなどと特別に書き入れると、何だか不安の事でも有るかの様に聞こえる。其の一語だけは書くに及びません。」

 流石に嘘ばかり書き慣れて居る。用意は綿密だ。翁は口授された通りに書いた。
 手鳴田「貴方の姓名は何と言います。」
 白翁「ウルビン、ファブル」
 手鳴田はたった今、翁の衣嚢(いのう)《ポケット》から取り出した手巾(ハンケチ)を出し、其の隅を検めた。隅にはUFと頭文字が縫ってある。

 「成る程其れに違い無い。ではUFと署名なさい。」
 翁は署名した。
 守安の心配は並大抵では無い。扨(さ)ては此の所へ黒姫を連れて来るのかも知れない。姫の顔の見られるのは嬉しいけれど、此の様を見せては、何れほど心配させるもか知れない。其れのみか、姫の身にも危険が及ばないとは限らない。若し其の様な事が有っては、イヤ其れでは此の守安の1分が立たない。

 仕方が無い。父の遺言には背いても、姫が来たなら直ぐに蛇兵太へ合図をしなければと、又床から拳銃を取り上げて来た。其のうちに手鳴田は手紙を状袋(じょうぶくろ)《封筒》に入れて、
 「サア宛名をお書きなさい。」
 白翁「誰の名を」
 手鳴田「決まって居ます。あの娘の名です。」

 翁「エ、あの娘(こ)」
 手鳴田「そうです。小雲雀に宛てるのです。」
 小雲雀と許(ば)かりで本当の名を言わないのが、流石に悪人の用心である。」
 仲間の者に一々秘密を知られては、後々の不都合だ。
 「サア貴方の所番地は。」
 白翁「ドミニク街十七番地」

 手鳴田「成る程毎日行くヂャック寺の傍ですね。では其の番地を書き、ウルビン、ファブル留守宅にてファャブ嬢と宛てれば好いのです、」
 白翁は其の通りに上書きを書いた。手鳴田は之を受け取り、直ぐに妻を呼び、
 「好いか先刻言付けた通りにするのだよ。少しでも仕損じては大変だから。」

 妻は全権大使に任命された様な面持ちで、
 「仕損じなど有る者かね。お前よりは私の方が余ッぽど気が附くワ。」
と言い、荒男の中の三人を引き連れて出で去った。
 手紙一通を届けるのに何の為に荒男を三人も連れて行くのだろうと、壁の此方で守安は怪しんだ。手鳴田は凡そ二十分間が程も無言(だま)って居た末、終に説明する様に翁に向かい、

 「念の為良く申して置きますが、ここへ小雲雀を連れて来るのでは無いのですよ。今の手紙で欺いて連れ出して馬車に乗せ、誰も知らぬ所へ隠すのですよ。」
 聞いて。
 「エ、エ」
と白翁は言わなかったが、守安の方が驚いた。荒くれ男三人と雄牛の様な女一人で、黒姫を連れ出して、何の様な所へ押し籠めるのだろう。もう何うあっても、蛇兵太をを呼び、ドミニク街へ走らせて、姫の連れ出されない中に喰い留めさせねば成らぬ。とは言え、もう既に手遅れと為ったかも知れない。
 手鳴田「今に私の家内が帰って来て、何事も旨く行ったと言えば、貴方の手を解き放して無事に貴方を帰して上げます。貴方は明日二十万法の金を以て私の所へ来れば、金と引き換えに小雲雀を渡して上げます。若し其の金を持って来ない中に、私が警官にでも捕らわれれば、直ぐに今の三人の荒男が、小雲雀を絞め殺す事に成って居ますから、小雲雀を殺し度いなら、警察へ私を訴えるが好いのです。」

 全く黒姫を人質に取って置くのだ。守安は絶望した。警察官に知らせては、黒姫が殺される事に成るのだ。



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