黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

噫無情（ああむじょう）　　（扶桑堂　発行より）（転載禁止）

ビクトル・ユーゴ―　作　　黒岩涙香 　翻訳　　トシ　口語訳 *

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噫無情　　　　仏国　ユゴー先生作　　日本　涙香小史 訳

　　　九十八　陥穽（おとしあな）　六

　黒姫を人質に取って置いて、そうして白翁に金を出させるとは、世に言う喉を握って背を打つ様な残刻な仕方である。万に一つも仕損じの有る筈は無い。
　恐らく白翁は二十萬法（フラン）が百萬法と言われても出さずには居られないだろう。命を出せと言われても否は言えない。

　もう黒姫は人質に取られたに違い無い。今頃は馬車に乗せられ、手鳴田の妻と三人の荒くれ男共に護衛せられて、何処か泥坊の巣窟とも言う様な場所へ、連れて行かれる途中なんだろう。今夜一夜は、何うあっても其の恐ろしい場所に留め置かれるに極まって居る。この様に思うと、守安は気が気で無い。

　若し自分に二十萬法の金が有るなら、壁の隙間から投げ込んで遣るのにと、思った所で無益である。先刻僅かな馬車賃の無い為に、黒姫の後を追うことが出来なかった程の始末だもの。たとえ其の半分の半分で黒姫を助ける事が出来るとしても、仕方が無いのだ。金と言う話に成っては、多少に拘わらず、力に終えない。と言って警官に合図する事も、もう到底出来ない。合図すれば黒姫が殺されるのだ。

　白翁も辛いだろうが、翁よりも守安の方が腹の中の煮え返る様な思いである。真に四苦八苦とは是だろう。凡そ幾時の間、苦しんだかも知れない。ナニそれほど長い時間では無いけれど、長い様に思われた。其の中に廊下の方で足音が聞こえた。手鳴田は其の冷酷な顔に、満足の笑みを浮かべ、白翁に向かって、

　「サア愈々貴方を解き放して、帰して上げる時がが来ました。宜しいか、二十萬法と小雲雀とを引き替えですよ。其れも余り長くては可けませんから、期限を極めて置きましょう。そうですね、大負けに負けて、明日の昼の十二時までと。ねえ、半日の猶予が有れば二十萬法の金を銀行から引き出して来るのに充分でしょう。若し十二時を過ぎたなら、お金を持って来たとしても駄目です。肝腎の小雲雀は此の世には居ない事に成るのですから。」

　言い聞かせて白翁の無言（だまっ）て居るのを見詰める中に、入口の戸を開いて此の部屋へ躍り入ったは手鳴田の妻である。
　何事もうまく行った嬉しさに躍るのかと思えば、そうでは無い。腹立たしさに、床も抜けよとばかり踏み鳴らすのだ。背後には彼の荒くれ男等も就いて居る。

　「エ、エ、この様に悔しい事は無い。」
と怒鳴る声が部屋中に響いた。確かに雄牛の鳴く声よりも以上の声である。
　「何したのだ。何したのだ。」
と手鳴田は立った。

　妻「エエ、悔しい。此の白髪頭に欺（だま）された。今の番地は嘘の番地ですよ。ドミニク街十七番地にウルビン、ファブルなどと言う住人は無いのです。誰に聞いても其の様な名の人は知らないと言います。全く嘘の番地と嘘の名を書いたのです。」
　扨ては黒姫は此奴等の手には未だ入らぬのかと守安は少し安心した。けれど是れで白翁の命は尽きる者と思わなければ成らない。

　此の報告には手鳴田も驚いた。
　「何だ嘘の番地」
と彼も叫んだ。彼は余りの腹立たしさに、為す所を知らないのだ。歯を噛み鳴らしつつ部屋中を見廻すのは、何とか白翁を懲らす工夫は無いのかと、探すので有ろう。やがて彼の眼は、彼（か）の暖炉（ストーブ）の中に、火花の散るほど先程から熱して居る大鑿（おおのみ）に注ぎ、突突（つかつか）と歩み寄って、其の柄に手を掛けたのは、白翁の顔か何所かを焼き爛（ただ）らせ、場合に依れば焼き殺しもしようと言う所存だろう。

　併し彼は、
　「イヤ待て、一応聞き質（ただ）した上で無ければ。」
と呟き、其のまま白翁の前にあるテーブルの端に寄り、
　「嘘の番地を書くなどと、貴方は何時までも我々を欺き果（おお）せる事が出来ると思うのですか。何の為に嘘の番地を書きました。」

　白翁は凛（りん）と響く様な声で、
　「時を得る為です。」
言いながら其の身を一振り振ると見えたが、何うしたのか彼を縛って有った縄は切れて居る。白翁は獅子の様な威光を以て優（ゆた）かに立ち上がった。

　けれど猶（ま）だ其の片足だけは縄が切れずにテーブルへ繋がれて居る。縄は中々人間の力で切る事の出来ない堅い荒縄で在るのに、彼は何して之を切ったのだろう。切って又何うする積りだろう。勿論再び闘った所で九人の相手に叶う筈は無い。同じことを繰り返すに終わるのだ。


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