aamujyou99
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
九十九 陥穽(おとしあな) 七
何うして白翁は縄を切ったのだろう。幾等力が有ったとしても、力だけで切ることの出来る様な縄では無い。之を切ったのは殆ど神の業とも称すべきだ。一同の悪漢等、只驚きに驚いて暫(しば)し顔を見合すのみで有った。
縄を切るのは、特別にその術が有るのだ。それは多年牢屋の中に居て、囚人の学問を卒業した人で無くては知らない。白翁が縄を切ったのは、その術を心得て居たに違い無い。その次第は後で分かった。此の後警察で調べた時、この家の番人が、警察署へ一つの参考品を差し出した。それは此の部屋に落ちて居たと言う、一個の二銭銅貨である。銅貨の中へ、縄でも木でも或いは鉄をでも切る、鋭い刃物を隠すのが囚人の術なんだ。
見た所は一枚の銅貨だけれど、実は二枚を合わせた者だ。一枚はその裏をすり減らし、一枚はその表をすり減らし、二枚ともに半枚の薄さと為して之を合わせて丁度一枚の銅貨が出来る。其の合わせ目は上の一枚を雄螺旋(おねじ)として、容易に開かない様に堅密に螺旋(ねじ)合わせて有る。凡そ世に是ほど精巧な細工は少ない。
けれど長く牢に居る囚人の中には、此の細工を覚える者が随分ある。そうして上の一枚と下の一枚との間を抉(えぐ)り、空虚(うつろ)と為して、その所へ時計の発条(ゼンマイ)を入れて有る。言わば銅貨の錫を薬品入れの様に作り、その中へ凶器を隠すのだ。時計の発条(ゼンマイ)が凶器なんだ。昔から囚人の中には、針一本あれば鷗羅巴(ヨーロッパ)の何の様な獄でも破ると断言した程の者も有る。
時計の発条(ゼンマイ)は鍛え抜いた鉄であるから、之に刃を附ければ、刃物にも鋸にも鑢(やすり)にも代用が出来る。場合に依っては人を殺すことも出来ないとは限らない。老巧な囚人に取っては凶器の上の凶器なんだ。
此の部屋に落ちて居た銅貨が即ち是なんだ。只の銅貨では無く、何所かの獄中に居る職人の作った凶器なんだ。
多分白翁が之を持って居て、先刻手紙を認める為、右の片手を解き放された時、何所からか取り出して、今まで密かに縄を切って居たのだ。手鳴田の内儀が出てから、三十分ほども時は経たから、其の中に旨く切り果せたものと見える。但し足の縄だけは、切るには俯向かなければ成らない。俯向けば露見する。其そだから切る事が出来なかったのだろう。
縄を切って何うする積りだ。勿論逃げる事は出来ない。九人相手に闘うと言う事も出来ない。見る中に白翁は、股を広げて、片手を延し、彼の暖炉の中に在った火花の散る程に熱して居る大鑿を取り出した。之を高く自分の頭の上に差し上げ、仁王の様に立って手鳴田に言った。
「貴方は何の様に私を責めても、目的を達する事は出来ません。手紙を書けの、金を出せの、娘の居所を知らせろのと、その様な言葉に私を従わせ様と思うのが間違いです。如何なる責苦にも私は抵抗します。その証拠をお目に掛けましょう。是此の通りです。」
言う言葉は死を決した人の声で有ろう。静かでは有るけれど、侵し難い勇気が籠って、凄いとも恐ろしいとも譬(たと)え様が無い。
此方から覗いて居る守安は神経が剛張(こわば)る様に感じた。
証拠とは何の様な証拠だろうと、怪しむ間さえも無く、白翁は左の手の袖口を、肩の辺まで捲(まく)り上げ、力瘤のある腕を現して、その上へ熱鉄を推し当てた。アア何と言う豪胆な振舞いだろう。腕の肉は宛も生肉の焼ける様にパチパチと音がして、脂を散らせ、異様な臭気が部屋の中に広がった。余りの事に守安は目眩(めまい)がする様に思い、顔に両手を当てた。
昔片腕に火を翳し顔の色を変えなかった言う羅馬の英雄の所業でさえも、此の白翁のする事に勝りはしないだろう。翁は神色自若である。イヤ自若たる中に、其の身の揺るぐほどの苦痛に見えて居るけれど、彼は其れを現さない。彼の顔は、熱鉄の深く深く腕に浸み込むと共に、赤く照り輝いた。真に彼の魂が彼の顔に写るのだろう。殆ど神々しい所が有る。
彼は又静かに、
「何の様にでも私を苦しめて御覧なさい。そうすれば合点が行きましょう。成程此の爺は、殺してしまうより外は無いと。そうです。殺しても口は利きませんから、其の積りで私を処分為さるが宜しい。」
と言いつつ、徐(おもむろ)に熱鉄を取外して、窓の外に投げた。熱鉄は地上の雪の上に落ち、寒と熱との闘う音が聞こえた。
全く白翁は此のまま殺される積りである。自分の命に代えて黒姫を保護するのだ。
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